(一気に内容まで行きたかったけど、前段階だけで結構な分量になったので、一旦ここで公開。内容もくっつけて後日完成させます。)
こちらの記事でも腰痛のことは書いたけれど
子どもが生まれてからの無理がたたったのか、今年だけでもう3,4回ほどぎっくり腰で動けなくなってました。いろいろ調べたり、対策を講じてみて、今はおそらく根本的に腰を傷めない対策ができているはずで、しばらく様子を見て確信を得たら腰痛対策の記事でも書こうと思ってます。
で、今回は腰痛のときにおすすめの一冊。
ジャック・デリダの「グラマトロジーについて」(上下巻ありますが、まずは上巻)を読んで手応えを掴めてきていて、その紹介。
せっかくなので目次とかつけてブロガーっぽくどうぞ。
まぁでもまさにデリダがそうなように、現代哲学が行き着いているのが「学(logy)」という閉ざされた領域(閉域)を壊したり、飛び越えるという方向だったりして、哲学書は専門家しか読めない、とか大学で読むもの、っていうのってもう古いなと思うんです。そもそも人間にとって根本的な原理とか考え方を書いている本が、特定の人にしか理解できないってどういうこと??だと思うんです。
とはいえ、哲学書って「お手軽に」楽しめるようなジャンルじゃありません。それは、一冊の本だけで完結して理解できるように書く、という前提がないから。(これはおそらく西洋哲学の前提で、日本の、たとえば吉本隆明の書いたものは、基本的にその本だけ読めば分かるように書かれてます。)
だからいわゆる(西洋)哲学を読むときには、二千年、三千年と積み重ねられた歴史(これは本当に誰かが書き残して積み重なるような書物として)を土台に書くし、読む方も当然その土台ありきで読んでよね。というルールと言うか手順や作法みたいなものがあって、そのあたりがやっぱり素人に対する敷居の高さを作ってたりします。
ということ。
ゼミや書く講座で文章を読む読み方を、最近「深読」と呼ぶようになったのですが、それは書かれた文章を自分という特異性を最大限活用して「自分にはこうとしか読めない」という感覚をベースに読むような読み方です。反対にあるのが、たとえばAI(人工知能)によるパターン認識をベースにしたその本や自分という特殊性を脇においた共通性だけを頼りに最大公約数的な意味を掴むような読み方。
こうして並べると後者は人間らしくない読み方みたいに聞こえるけれど、現代において一般的なのは後者の読み方だったりします。より多くの人が正しいとおもうような読み方をすることが求められているし、書かれている意味の正確な解釈を、つまり正解を掴めることが良いことだとされている、と言えば結構今ってそういう雰囲気が優勢だなって思い当たるんじゃないでしょうか。
だからこそ、哲学みたいに膨大な知識を土台にした本は専門家じゃないと読めない、ということにされてきたわけなんですが、面白いことに「この方向性でほんとにいいの?」「これ行き着く先は神様みたいに全てのことを知っている(絶対知)みたいなことになるけど、それってありえるの?」「ていうか全てのことを知っている状態になったら何かを読むとか書くとかする必要ないし、そんな状態変じゃない?」というような議論が、まさに現代西洋哲学の中でされてきてたりするわけです。
で、これはおそらく、という留保をつけるけれど、ぼくの中では確信を持っているのが、そういう積み重ねられてきた真理とか知識(エピステーメー)の閉域を突破することができるのは、自分という特異性しかないんじゃないか、ということ。
って言っても、それは積み重ねられたものを無視することや軽視することではなくって、ちゃんと読めば、「あ、ここはいきなりぶっこんできてるから、なんかそういう前提があるんだな」とか、「この辺は結構慎重に言葉を重ねてきてるから、新しくここで言いたいことなんだな」とか、そういうことも手応えを持って感じ取ることができたりします。
加えて、哲学書ではおそらく個人的な感情とか文章からにじみ出てしまっている文体に注目したことは言われないですが、「あー、デリダはほんとにルソーがすきだったんだな」とか「ソシュールのことも嫌いじゃないよね」とか、「レヴィ=ストロースはもう絶対嫌いだよねー、絶対イライラしながら書いてるよ」とか、そういうことも何故かちゃんと読めば知人のことのように話ができたりします。
内容編へ続く
あ、腰痛の話もできてなかったので内容編にて。。。
こちらの記事でも腰痛のことは書いたけれど
で、今回は腰痛のときにおすすめの一冊。
ジャック・デリダの「グラマトロジーについて」(上下巻ありますが、まずは上巻)を読んで手応えを掴めてきていて、その紹介。
せっかくなので目次とかつけてブロガーっぽくどうぞ。
目次
はじめに
一:哲学の敷居の高さについて
二:深読という読み方
内容編
準備中
はじめに一:哲学の敷居の高さについて
あらかじめ断っておくと、ぼくは哲学という学問を専門的に学んだわけではありません。自分でも哲学書をこんなにちゃんと読む日が来るとは思ってもいませんでした。そして、こんなに読めるようになり、そこに書かれていることが実は自分にとっても身近なことと驚くほど関連しているのだと思うなんて、10代、いや20代の自分に聞かせたら驚くんじゃないかな。まぁでもまさにデリダがそうなように、現代哲学が行き着いているのが「学(logy)」という閉ざされた領域(閉域)を壊したり、飛び越えるという方向だったりして、哲学書は専門家しか読めない、とか大学で読むもの、っていうのってもう古いなと思うんです。そもそも人間にとって根本的な原理とか考え方を書いている本が、特定の人にしか理解できないってどういうこと??だと思うんです。
とはいえ、哲学書って「お手軽に」楽しめるようなジャンルじゃありません。それは、一冊の本だけで完結して理解できるように書く、という前提がないから。(これはおそらく西洋哲学の前提で、日本の、たとえば吉本隆明の書いたものは、基本的にその本だけ読めば分かるように書かれてます。)
だからいわゆる(西洋)哲学を読むときには、二千年、三千年と積み重ねられた歴史(これは本当に誰かが書き残して積み重なるような書物として)を土台に書くし、読む方も当然その土台ありきで読んでよね。というルールと言うか手順や作法みたいなものがあって、そのあたりがやっぱり素人に対する敷居の高さを作ってたりします。
はじめに二:深読という読み方
それでも言いたいのは、どんな風であれ書かれている以上ちゃんと読めば分かる。ということ。
ゼミや書く講座で文章を読む読み方を、最近「深読」と呼ぶようになったのですが、それは書かれた文章を自分という特異性を最大限活用して「自分にはこうとしか読めない」という感覚をベースに読むような読み方です。反対にあるのが、たとえばAI(人工知能)によるパターン認識をベースにしたその本や自分という特殊性を脇においた共通性だけを頼りに最大公約数的な意味を掴むような読み方。
こうして並べると後者は人間らしくない読み方みたいに聞こえるけれど、現代において一般的なのは後者の読み方だったりします。より多くの人が正しいとおもうような読み方をすることが求められているし、書かれている意味の正確な解釈を、つまり正解を掴めることが良いことだとされている、と言えば結構今ってそういう雰囲気が優勢だなって思い当たるんじゃないでしょうか。
だからこそ、哲学みたいに膨大な知識を土台にした本は専門家じゃないと読めない、ということにされてきたわけなんですが、面白いことに「この方向性でほんとにいいの?」「これ行き着く先は神様みたいに全てのことを知っている(絶対知)みたいなことになるけど、それってありえるの?」「ていうか全てのことを知っている状態になったら何かを読むとか書くとかする必要ないし、そんな状態変じゃない?」というような議論が、まさに現代西洋哲学の中でされてきてたりするわけです。
で、これはおそらく、という留保をつけるけれど、ぼくの中では確信を持っているのが、そういう積み重ねられてきた真理とか知識(エピステーメー)の閉域を突破することができるのは、自分という特異性しかないんじゃないか、ということ。
って言っても、それは積み重ねられたものを無視することや軽視することではなくって、ちゃんと読めば、「あ、ここはいきなりぶっこんできてるから、なんかそういう前提があるんだな」とか、「この辺は結構慎重に言葉を重ねてきてるから、新しくここで言いたいことなんだな」とか、そういうことも手応えを持って感じ取ることができたりします。
加えて、哲学書ではおそらく個人的な感情とか文章からにじみ出てしまっている文体に注目したことは言われないですが、「あー、デリダはほんとにルソーがすきだったんだな」とか「ソシュールのことも嫌いじゃないよね」とか、「レヴィ=ストロースはもう絶対嫌いだよねー、絶対イライラしながら書いてるよ」とか、そういうことも何故かちゃんと読めば知人のことのように話ができたりします。
内容編へ続く
あ、腰痛の話もできてなかったので内容編にて。。。
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