はじめに
キッチンの常識を疑う
僕らの場合
いつのまにか始まっている外部化と内部化
堆積する内外の距離と最悪のケンカ
キッチンの楽しみ方
はじめに
歴史家の網野善彦によると、家は最古のアジール(聖域)だと言われています。
文化人類学者の中沢新一によると、その家の中でも火を扱う場所は、異世界との接点を果たすような家という聖域の核心部分だとされてきたのだとか。
太古の昔には、直接火を囲んだのだろう。それからずっと時が経って、つい100年ほどまででさえも家の食べ物は竈(かまど)で火を焚いて調理されていた。
現代では、ガスやIHという形になってはいるけれど、家の中で人体が火傷を負うほどの高温を日常的に扱う場所としてキッチンが家の中心に位置している。
一人暮らしの場合は中心どころかほとんど使わないこともあるだろうけれど、二人以上で、しかも子どもが産まれた家庭にとっての台所は、99%の確率で家の中心を担っていると言って良いんじゃないかと思う。
キッチンの常識を疑う
夫婦喧嘩の話をするのに、なんでこんなことを書いているのかと言うと、今回のケンカがこのブログの、というより夫婦そのものの危機だったからなのですが、その詳細はさておき、結局の所行き着いたもっとも単純で下世話な、原因であり解決であり根本的な問題そのもの、というのが台所でした。
ぼくは別にこれを男女平等とか、フェミニズム的な観点から言っているのではありません。むしろ「キッチンは女性が使いやすくするもの。」とか、「台所の主役は女の人。」みたいな見方が、ぼく(となっちゃんも)の当たり前に接してきた考え方でした。
だから全くジェンダーとかそういう観点からではなく、家ってそもそもどういうものなのか、台所ってそこで暮らす人にとって何なのかという方面から、いわゆるキッチンの常識ってやつが僕たちにとっては全く役に立たないどころか害悪を生み出していたことに(結果としてだけど)気づいたのでした。
僕らの場合
いつのまにか始まっている外部化と内部化
この家を建てるとき、設計段階からL字型のキッチンは常に家の中心として考えられてきました。ここまでは、暮らすにしろ人が集まるにしろ食事をすることは必ず(定期的、日常的に)あるから、それを中心にしているだけで多くの家がそうなっている。※1建築前に作成した模型。 |
けれど、具体的なキッチンの天板の高さや、棚の高さや位置については「台所の主役は女の人」という前提で、なっちゃんを中心にして施工した。これが、2年後の今にまで後を引くことになった。このとき完成を急いでいたのもあるけれど、時間に余裕があってもたぶん、よりじっくりなっちゃんの使いやすいキッチンを作っていたと思う。
今にして思えばぼくは、このときキッチンという聖域に対してわずかに外側に立つことになった。つまり台所はなっちゃんの領域で、ぼくは一線を挟んで外の人という前提ができた。そして、お祝いで頂いたり、実家や親戚、友人に譲ってもらった調理道具や食器類の取捨選択までが担当者なっちゃんによって判断され、キッチンは聖域の純度を高めながら領域を狭めていくことになる。※2
堆積する内外の距離と最悪のケンカ
伊吹くんが産まれてから、ぼくがバイトに行くようになって家を空けることが増え、その動きは加速し、気づいたときには領域の内と外の距離は大きく隔たり、目に見えない分厚いバリアーを形成していた。※3これはごく最近まで続いて、玄関の工事が一段落し、(玄関の一部に資源ごみなどのストック場所を作ったのでその関係で)台所にも整理の出番が回って来ても、まったく手がつけられずにいた。※4
「玄関の工事が済んだんだから、なっちゃんも伊吹も今よりもっと快適に過ごせるようになるはず」と、今にして思えば勝手な妄想を繰り広げていたぼくも、ここまできてようやく「おかしいな」と思い始める。無秩序に増えていくキッチンの調理器具、ほとんど使わないけれど棚の一番いい場所を陣取る食器、そういうものに手を付けようとした途端、このブログの更新どころか夫婦の存続さえ危ぶまれるような過去最大のケンカが起こった。※5
で、なんとか危機を乗り越えて、一緒にキッチンに手を入れて見た所、驚くほど家の居心地が良くなって、なっちゃんも伊吹も僕も、以前と比べて快適に暮らせているのを実感しています。目に見える何かが劇的に変わったわけじゃないけれど、なんかスッキリしていて、以前と同じように起こる突発的な出来事に余裕を持てている。
これってなにが起こっているんだろう。ということでこの記事を書き始めました。
キッチンの楽しみ方
ここまでを誰かにすごく乱暴にまとめられるとすれば、キッチンの断捨離と整理整頓をしましょう、ということになるんじゃないかなと思います。けど、どれだけ最小限のものを揃えて整理されたキッチンでも、日常的に使う人が聖域性を作っているということに気づかなければ、起こることは同じだと思うんです。冒頭のように、家という場所。そしてその中心であるキッチンは由緒正しい人類の聖域です。そのキッチンにそこで暮らす人の関係の全てが集約されている、と言うのは言いすぎでしょうか。
だからたぶん、すごく物に溢れていて整理もされていなくても、使う人が心地よく使えてしまうキッチンだってありえると思っていて(稀だと思うけれど)、逆にすごく整理されてても使うたびに窮屈になってしまうようなキッチンもあるなって思います(これはよくありそう。断捨離や整理整頓が良いもの、という見方をするとそうなるはず)。
それぞれのキッチンは、そのどれもがその家独自の唯一のキッチンで・・・そうやって想像すると、それって面白くて楽しいなって思います。どこかのうちにお邪魔して「ここは整理ができてるな、できてないな」なんて頼まれもしない審査員なんかしたくないけれど、「このお宅のキッチンはどんなお顔をしてるかしら」と思って眺めたらきっと楽しいなって思います。
そんな風にして自分の家のキッチンをもう少しここをこうしたいな、とかこの感じが好きで眺めていたくなるよね、って思えたら、たぶんそれは自分にとって心地の良いキッチンで、ぼくはそういうキッチンのある家で暮らしたいんだなと(これを書いてて)気づきました。
この「自分にとって」というところがたぶんとても重要で、食べるだけの人も含めて使う人がそれぞれ自分のキッチンだと思って手を入れたり、入れなかったりできるそんな場所が、キッチンだったら最高だなって思います。
少なくとも子どものいる家庭ができるだけ快適に家で暮らそうとする場合、そこで暮らす人がそれぞれ自分のキッチンを育てていけると(あるいは育ったキッチンを使っていけると)、それは日常に大きなゆとりと豊かさを生み出してくれるんじゃないかな。
※1
結婚して子どもを持った家庭の多くが当たり前のようにそうなっていると思う。このとき、「男子厨房にはいるべからず」とまでいかずとも、一方が基本的に食事を作る役割を担い、もう一方がたまに(日常的ではない形で)料理をするという形をとることもまた多くの場合そうだと思うけれど、この役割分担という形態は一見合理的に見えて、たとえば子育てとか合理的に処理できない事態に直面したときに脆い。乳幼児を相手にすると、体調や機嫌という不確定なものによって、合理性は粉々にされる。回避するには人手を増やすかもっと合理性を上げる(ある程度子どもが泣いているのを無視するとか、高価な家電製品等によって家事の手間を下げる)ことになる。
※2
この頃からだと思うけれど、ぼくが料理をしたり、食器を片付けるとなっちゃんが「ありがとう」と言うようになった。そのことに長らく違和感を持っていたけれど、ぼくとしても手伝っている感触は拭いきれず、どうしていいか分からないという事態が起こっていた。極端に言うと、外部の人間であるぼくが聖域内のことをしたことに対して、「わざわざ外から来てくれてありがとう」となっちゃんは言っていた。このやり取り事態はなんの違和感もない当然のやりとりだけど、乗っかっている前提に気づけてなかった。
※3
あとで聞いた所、別に「私の場所よ!」とか「私がこのキッチンを作っている」なんていう自覚はさらさらないけど、結果的に選んだものとその配置によって、自分が形作ったキッチンがあって、それに手を入れられたり口を出されると、否定されたり自分の(整理整頓等の)できてなさを突きつけられるようで、心地悪い感じがしていたんだとか。
※4
これも今にして見ればだけど、このときは疲れが限界に達するのが異様に早かった。ぼくが大工仕事をし、なっちゃんは伊吹を見つつ暮らしのことをしている中で、食事を作ることの負担が高かったのだと思う。家にいる時間が増えてから、ぼくもかなり料理をするようになったけれど、次から次へと増える洗い物、ちょっと取りにくい食器、自分の領域ではない場所という小さな感覚、が積み重なっていたのかキッチンへ行くのはおっくうな感じがつきまとっていた。
※5
このとき起こったことはまた小説的な形で表現してみたい。
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