たまには短く散文的に。
今朝のこと。
「おむつ」というと手を自分の腰に当てておむつを示している。
たとえば、ぶーぶー、にゃんにゃん、わんわん、あーんあーん(赤ちゃん)などは、どれも似ていて、聞き分けは難しいけれど、確実にいい分けるようになっている。
こういうことはひと月前には無かったこと。
「ぐんがぐんがぐん、(&’&$$%&&’」とたぶん本人にも何を言ってるのか分からないような、でもこれはもう絶対に何かおしゃべりをしてるよね、という音を出すのも、前は一日に一回あるかどうかだったのが、今は毎日になっている。
名前というのが、ひとつの記号とか印なのだなと思うのは、以前は目の前にそれがあったり指を指さないとお互いに「それ」ということを共通に認識できなかったのが、音だけで似たものも含めて「それ」をお互いに理解できるようになった。
と同時に、「『それ』と一体になった感覚は失われてしまった。」とも言えるけれど、そもそもそんな感覚は人にとって認識できないので、失われると言うよりは単に段階が次へ進んだということ以上でも以下でも以外でもない。
名前によって広がっていく世界の中を伊吹くんは今日も冒険する。
今朝のこと。
「おむつ」というと手を自分の腰に当てておむつを示している。
たとえば、ぶーぶー、にゃんにゃん、わんわん、あーんあーん(赤ちゃん)などは、どれも似ていて、聞き分けは難しいけれど、確実にいい分けるようになっている。
こういうことはひと月前には無かったこと。
「ぐんがぐんがぐん、(&’&$$%&&’」とたぶん本人にも何を言ってるのか分からないような、でもこれはもう絶対に何かおしゃべりをしてるよね、という音を出すのも、前は一日に一回あるかどうかだったのが、今は毎日になっている。
名前というのが、ひとつの記号とか印なのだなと思うのは、以前は目の前にそれがあったり指を指さないとお互いに「それ」ということを共通に認識できなかったのが、音だけで似たものも含めて「それ」をお互いに理解できるようになった。
と同時に、「『それ』と一体になった感覚は失われてしまった。」とも言えるけれど、そもそもそんな感覚は人にとって認識できないので、失われると言うよりは単に段階が次へ進んだということ以上でも以下でも以外でもない。
名前によって広がっていく世界の中を伊吹くんは今日も冒険する。
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