【11】小説「夫婦の居境」 一 

2018年11月14日水曜日


 1 

 家を出るときに憲一は「こんなに晴れた日に出かけるのか」と思いながら、やりかけの日曜大工の材料を見て歩き出した。「もしかしたら自分は間違った方へ行ってしまっているんじゃないか」という薄い霧に包まれるみたいだったのは、家からまっすぐ坂を下りていくときまでで、最近少しずつ冷たくなってきた空気で肌が目覚め、季節の割に強い日差しで身体が温まってくると、駅までの道はいつのまにか心地よいものに変わっていた。

 「そういえば君と電車に乗るのはいつ以来だろうね」
 「あら、それよりも伊織が産まれてからはあなた初めて一緒に電車にのるんじゃない?」
 ベビーカーを押しながら顕微鏡で見なければ分からないようなかすかな感覚が、憲一の表情を同じだけ曇らせる。「息子と初めて電車に乗るのに、それを楽しみにするどころか気づきもしていないの?」夏子がそんなことを思っているはずはなく、それが自分の心と身体のどこかで、自分の知りえないような営みが織りした声のようなものだということを憲一はよく分かっている。けれど同時に、それが一体何なのかを自分だけで探り当てることはおろか、ヒントを掴むことすらできないこともまた、彼はよく知っていた。
 今、倍率をあげて言葉として掴みだしたセリフもだから、神経や血管が網目のように張り巡らせたネットワークを微かに揺らしたその振動を拡大し、無造作にスケッチしたものに過ぎない。仮に夏子に伝えたとしても、きっといつものように眉間にシワを寄せて「信じられない」という顔をするか、「なんでそんなことをわたしが思わないといけないの」とあからさまに不機嫌になるかするだけだろう。
 憲一はいつもずっと世界にこの微細な感覚を一緒に眺められる顕微鏡が実際にあればと願っている。世界でだれも見たことのないその姿や動きを、交代で見ながらそれがなんなのか言葉を交わす。結局のところそれがなんなのか分からなかったとしても、自分だけではとても解けそうにない世界の謎を、一緒に解き明かそうと肩を並べて歩けたら、それだけで彼にとって生きることは面白さに満ちたものになるに違いがなかった。
 
 「ああ、そういえばそうだった」
 憲一は気の抜けた返事をするのがやっとで、それが夏子に変に思われていないかが気になる。
 「伊織ー。前にも電車に乗ったの覚えてるー?」夏子は「んー」「んー」とさっきからベビーカーを下りたそうにしている伊織に話しかけると、「歩きたいの?よし行こっか」と抱きかかえてあるき出す。来ていた上着を脱ぎたいほど温まってきた身体で、夏子と伊織の姿を見ながら、彼女が憲一のそんな微細な迷いや逡巡を、気持ちが良いほど気にしない人間だったことを思い出す。夏子との間がもつれたとき、彼女のそれは大切にしているものを根こそぎ薙ぎ払うように迫るが、上手く行っているときにはこの大胆で爽やかな世界の見方が彼の足取りを軽やかにしてくれた。


 2 

 郊外のはずれにある家から街の中心には、地上を走る電車に揺られたあと地下鉄に乗り換える。子どもが産まれてから街に出たことのなかった夏子は今朝、思いがけず憲一から「ちょっと用事があって街に出るんだけど一緒に行くかい?」と聞かれると、食べていたパンの味さえ変わったようにいそいそと準備を始めた。
 洗濯とごみ出しを終え、息子のおむつと着替え、お腹がすいたときに食べる果物を用意し、前から行きたいと思っていた布地の専門店の場所を確認すると、以前二人でよく行った河原が近くにあることを知って、お弁当の準備をすることにした。
 財布をポケットに入れるだけでカバンのたぐいを持たない憲一の準備は、夏子にとって今だに信じれないほど早く、着替えを済ませてスマートフォンの画面を見ている姿からは「君の支度さえ整えば今すぐにでも出発できるんだけどね」と言う声が聞こえてくるようだった。つい最近までは締切間際の仕事に追われるような重圧の中を感じ、夏子ひとりが家を出るという壮大な仕事の責任を全て負わされているようで、出発するころには仕事を終えた疲労感で一杯になっていた。そんな中で追加の仕事をもう一本増やすようにお弁当の準備をするなど、以前には考えられなかった。彼女は長い間そうして自分の中から湧き上がってきたやりたいことは、やらなくてもいいこととして捨ててきた。

 田舎育ちの夏子にとって、前にも後ろにも人が歩き回っている街の中へ子どもを連れて行くことは想像しただけで緊張するような場所だった。住民の車と宅配便のトラックがたまに道を通るだけの庭や道路が当たり前の彼女には、見知らぬ人と数え切れないほどすれ違うような場所という存在そのものが緊張感を持っていた。それでも街へ行きたいのは、憲一が日曜大工で作ってくれた棚にかけるのにぴったりの布地を扱っている店に、できるだけ早く行ってみたかったからで、けれどそんなことができるのはもっとずっと先だと思っていた。

 いついけるのか分からなかった場所に今日行ける。その準備を今している。こういうとき夏子は自分でも浮かれているのを分かっていながら、大胆な気持ちになっていく。そのことで憲一を驚かせたり、ときにはそれで不機嫌な顔をされることもあった。幾度もの諍いを経てお互いの性分分かってきた今でも、いざお弁当のことを憲一に伝えるとなると憲一の不機嫌そうな顔と声が頭をかすめた。
 「ん?お弁当?そりゃいいね。河原で?なんだか遠足みたいでいいね。」と憲一から小気味良い返事が返ってきたのは、今では驚くほどのことではなくなっていたけれど、言い出す前とのちょっとした晴れやかさの違いが夏子の心をさらに軽やかにした。


3 

 がらがらだった車内は、地下鉄に乗り換えるころには立っている人が目につきはじめ、夏子は伊織をベビーカーに乗せ直して早めに席を立つ。その後ろを憲一がついていき、混み合いだしたドアの前で駅につくのをしばらく待った。ドアが開くとスーツを来た中年の男が体をねじ込むようにホームへと下りていく。伊織の乗ったベビーカーが見えていないように通り過ぎていく男の動きは、夏子の手足を固くさせ心を身構えさせた。ちょっとした怖さや緊張感と折り合いをつけようと「やっぱり街はこわいねー、今ぶつかりそうだった」と彼女は憲一に漏らした。

 改札を抜ける。地下へ降りるためのエレベーターを探す。寝てしまった伊織を起こさないように地下鉄のきっぷを買う。どうということのない一つ一つの行動が、伊織のいない頃にしていたのと違っていることを、夏子は当たり前のこととして受け入れている。そうした変化のことよりも、ついさっきのような出来事から伊織を守ろうとする気持ちが街の中心へ向かっていくにつれて大きくなり、知らぬ間に夏子の心と身体をこわばらせた。

 目的の駅に着いたときに「トイレを済ませておきたい」と夏子が思ったのは、電車に乗っている間我慢していたからというよりは、これから街を歩く前に準備を整えておきたいという気持ちからで、「トイレがあったら行きたいんだけど」と憲一に声をかけたのも、急に立ち止まったりいなくなったりして驚かせないようにするためだった。

 地上へとあがるエレベーターの前には、伊織と似たような子どもを連れた夫婦が二組と年配の女性二人が並んでいて、少し広めのエレベーターの中はベビーカー三台と大人でいっぱいになる。夏子は今自分の置かれている状況を当たり前のものとして受け入れる一方で、似たような家族が近距離にいながら沈黙の中を過ごしていることに対しては、どこか不自然で受け入れがたいものだと感じていた。
 そしてこれからいよいよ街を歩く。そんなときに「もう少し周り見たら」と憲一が言い放ったのは、夏子には予想外の一撃だった。


 4 

 初めて夏子と伊織と電車に乗った憲一にとって、ベビーカーを押しながらこれまでと違う経路を通ったり、伊織のことを気にかけながら移動するという何気ない一つ一つのことが、家族が増えた確かさ知らせてくれるようで新鮮だった。彼はまたその新鮮さを感じている自分に目をやると、戻ってこない過去のことや今の自分の置かれた状況がなにかかけがえのないもののように思えて言葉を探した。

 けれど、高速で移動する密室の密度が高まり、一人で歩くときとは倍ほどの範囲に気を配りながら移動を続けることは、憲一の中に新鮮さとは違うものも生み出していた。乗り換えの駅に降りる直前、補助シートに座る大学生が伊織に手を振ったり、いないいないばあをしてあやしているのを横目に「今の自分は休日に家族と出かけている典型的なお父さんというやつに見えるのだろうな」と思うと、憲一は急に自分がどのように振る舞ったらいいのかわからなくなるような気がした。実のところ、どう振る舞ったら良いのかという方向から自分を眺めること自体が、電車にのる前には無かった視界だということに、その時の彼は気づいていなかった。
 少し混雑した降り口で、硬い動きをしながら人とぶつかりそうになった夏子が「怖かったー」と言うときには、憲一はそれを危なっかしいなと思いながら見るようになっていた。夏子と伊織を含めた家族の一員として見られているという視界が、憲一の世界の見方を電車に乗る前とは全く違うものに変えていた。

 夏子が街の、それも地下鉄や繁華街のような人が集まる場所が苦手だということを憲一は知っている。夏子の負担を減らそうとする気持ちに、できるだけ周りに迷惑をかけないようにという気持ちが一振り混じった心持で、憲一はベビーカーを押すのを変わる。子どもがトイレに行くタイミングも言い出せなくなっているように「トイレに行きたい」と夏子が言っているのを見て憲一は「やっぱりベビーカーを押すのを変わって良かった」と思った。

 見つかったのが少し遠くにあるものだと知った夏子からは「別に今それほどいきたいわけじゃないから大丈夫」と返事があった。今さっき伊織に加えて夏子のことにも気を配ろうと決めて進もうとした憲一の心の袖を夏子の言葉がグイッと引っ張り、あやうく転びそうになる。トイレが遠いから遠慮しているのか、本当にそれほど行きたいわけではないのか、だとするとさっき困ったようにトイレに行きたいと言っていたのは何だったのか。遠慮をしているとすれば、自分にとってそのための時間をとることが全く苦にならないことを伝えておいたほうが良いかも知れない。それほど行きたいわけでもないのにトイレに行きたいと伝える、などということはあるのだろうか。もしそうだとしたら彼女はわざわざ心にもないことを自分にいったのか、その意味は何か、確かめておくべきか。
 憲一には夏子の一言が果たして一体どこから放たれているのか、考えれば考えるほどわからなくなっていた。同時に、放たれた位置によって様々に変わる自分の感覚が視界に入ると、一体どうやって夏子に言葉を返せば良いのか、あるいは質問をするのか、受け応えの膨大さを前に途方に暮れた。どうしようもなくなった憲一は黙るしかなく、あとには身体の中にイガイガとした蒸気のようなものが巡り始めたような心地悪い気分だけがあった。

 混み合ったエレベーターに乗り込むと、こちらを気にしながら乗り込んだ夏子は、今度は乗り合わせたベビーカーにぶつかりそうになる。「後ろっ!」と声を出すのに合わせて体の中のイガイガがさらに憲一の全身を駆け巡った。今の夏子の行動が特別なすべてのきっかけや理由ではないことは分かっている。けれど青空の下から深い地下に入っていく中で起こった出来事が憲一の身体をどうしようもなく飲み込んでいった。するともう、彼の目にうつる夏子は何をするにも不器用で、頑張れば頑張るほど周りが見えなくなって周りとぶつかりそうになる頼りない母親になっていた。

 エレベーターから再び地上に出て太陽の光を浴びた二人の空気は、出発のときからは見違えるほど曇り、人気の多い道路で立ち止まることもままならない中で歩きはじめていた。

 たまりかねて、夏子が憲一の後ろから声をかける。
 「なにかいいたいことがあるんじゃないの。さっきから様子が変だけど。」
 憲一は立ち止まり振り返ると、少し言葉を探ったあとでつぶやく。
 「ちょっと周りが見えてないんじゃないか。」
 夏子からの返しはない。けれど一度吹き出したイガイガは、抑えきれずに憲一の身体の外へと飛び出していく。
 「少しは気を使いながら歩かないとそりゃ周りの人だって邪魔だと思ったりもするんじゃないかと思うよ。」
 「なんでそんなこと急に言い出すの。」
 「だって君があんまりトロトロとやってるから周りに迷惑かけてる。」
 「あたしがいるのが迷惑だって言いたいの?」
 「そこまでは言ってない。けど、もう少し周りを見て立つ位置とか周りとの距離とか見たらって言ってる。」
 街に来ても日差しの強さは変わっていないのに、憲一の身体は言葉を吐き出すほどに冷めていった。近くを通り過ぎる人とも隔たった世界の中で、今度は自分と夏子が密室の中に閉じ込められていた。

 「わかりました。わたしがいるのが迷惑だって言いたいんでしょ。もう帰りますから。はい、お弁当どうぞ。」
 突き出されたお弁当を受け止めたとき、今朝機嫌よくキッチンに立っていた夏子の姿と、それを伊織と一緒に見ている自分の感覚が蘇る。こういうとき、その感覚の方へと世界を傾けることができればといつも憲一は思うけれど、二人の間で勢いよく交わされた言葉は世界を大きく反対に傾けてしまっていて、どうすることもできない。勢いよく踏み出した脚が「それならご自由に。帰りたいなら今すぐ帰ればいい。」と夏子には聞こえるだろうな、と思いながらどうしてもその脚を止めることができずにいた。これから再びあの地下鉄のエレベーターに乗って、電車を乗り継いで、二人で帰っていく姿が胸に浮かぶ。夏子のそのときの気持ち、一緒にいる伊織はそれをみてどう思うんだろう。制御のきかないバラバラの方向に伸びていく思考と感情が脚を鈍らせた。

 5
 
 信号が赤に変わって立ち止まり、二人が並ぶ。憲一はとっさに「トイレだけでも行ってきたら」と声をかける。結局、あの言葉の意味は今でも分からないままだけれど、意味が分からないままでも夏子の言った一言は憲一の中に残り続けていた。「余計なお世話をするくらいなら放っておいてくれ」とでも言いたげな顔をしながら、それでも移動や話している間にトイレが近くなっていたのか、このあと伊織と二人で帰ればトイレに行きにくくなると思ってなのか、夏子はベビーカーを憲一との間に静かに置き、黙って姿を消した。

 地下鉄を降りた頃から眠っている伊織と二人になると、周りの人や車の気配が戻ってきて、憲一は日差しが暑いくらい肌に当たっていることにようやく気づいた。あと少しで正午を回る時間、手にしたお弁当を見ながら、これを河原で食べたら美味しいだろうなと思っている自分はなんて節操のない現金な人間なんだろうと思う。

 隣りに座って待ち合わせをしていた若い女性が続けて二組、携帯で連絡を取りながら再会を喜びながら立ち去っていく。思っていたよりも夏子の戻りが遅いことに、「一人で帰った、なんてことはないよな」という考えが一瞬だけ視界に入るけれど、あの遠いトイレに行って戻ってくるのにはそれなりに時間がかかるし、そういうことに関して夏子のことは無条件で信じられた。もし一瞬でも疑ったなどと言えば、今のやりとりなど比較にならないほど怒りだすだろう。
 そう思うと、今の自分は一体何について夏子と言い争っていたのか、もう自分でもよくわからなくなっていた。かといって今さっきまでの言葉の応酬が身体を暴風のように揺らした感覚が、日差しを受ける身体とは裏腹に体温の上昇を遮断するように冷たく居座っている。
 憲一は自分に一体何が起っていたのかをかをともかく見つめたいと思いながらも、身体の奥深くで絡まってしまっているこの現象は、やはりひとりでは明らかにできそうにもなかった。