よく、子どもは発想が豊かで大人に思いつかないようなことを思いつく、と言われる。
大人が思いつかないようなことを言ったり行うのはたしかにそうだ。
けれどそれは頭が柔軟で発想力が豊かだからではない。
大人が思いつかないようなことを言ったりしたりする子どもは、大人が思いつくような常識的な発想を知った上でそれを思いつくわけではない。大人が思いつかないようなこと”しか”発想することができないだけだ。
やがて経験が積み重なって、失敗することはしないように、怒られることは避けるように、実現することが難しいことは選択肢に入らないようになっていく。
本当の柔軟な発想力は、そうした人の作り出した常識や法則に直面した上で、どうやってその現状を突破していくのかというときに真価を問われる。何も知らない子どもがやってみようと思って思いついた程度のものは、そうした現実を乗り越えていくだけの強度がないため大抵の場合はしぼんでいく。それが多くの「豊かな子どもの発想」の待ち受ける末路だといえる。
ということを、昨日食べた味噌汁ご飯がイマイチだったので、鍋の残りで作った美味しい雑炊を断固として食べようとしない伊吹くんを見て思う。
大人が思いつかないようなことを言ったり行うのはたしかにそうだ。
けれどそれは頭が柔軟で発想力が豊かだからではない。
大人が思いつかないようなことを言ったりしたりする子どもは、大人が思いつくような常識的な発想を知った上でそれを思いつくわけではない。大人が思いつかないようなこと”しか”発想することができないだけだ。
やがて経験が積み重なって、失敗することはしないように、怒られることは避けるように、実現することが難しいことは選択肢に入らないようになっていく。
本当の柔軟な発想力は、そうした人の作り出した常識や法則に直面した上で、どうやってその現状を突破していくのかというときに真価を問われる。何も知らない子どもがやってみようと思って思いついた程度のものは、そうした現実を乗り越えていくだけの強度がないため大抵の場合はしぼんでいく。それが多くの「豊かな子どもの発想」の待ち受ける末路だといえる。
ということを、昨日食べた味噌汁ご飯がイマイチだったので、鍋の残りで作った美味しい雑炊を断固として食べようとしない伊吹くんを見て思う。
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