【音読ノート3】「音読」の中心 ー音読と朗読の違いー

2019年6月18日火曜日

音読ノート

 先日の「音読の時間」の冒頭。ミニレクチャーを録音したつもりができていなかったので、話した感触が残っているうちに少しでも文字にしておこうと思う。
 
 とおもったら、ぜんぜん違うものが書けてしまったので、タイトルを変えてアップ。


 「声に出して読む」と言うと「声の出しかた」の方に注目が行きがちだけど、「音読」は、音にして「読むこと」、あるいは声を出して「読むこと」なわけで、つまり「読む」行為が中心、あるいは土台になっている。


 朗読は「朗々と読むこと」つまり「はっきりと読むこと」。この場合の「読む」は声に出して読むことという意味になっている。つまり、どうやって声に出すか、という方が全面に出ていて「テキストを読む」という行為は前提に沈み込んでいる。だから「読み方」は各自に任せられていて、それぞれ独自にテキストと向かい合う。

 とはいえ、朗読という行為そのものがアウトプットに比重が傾いているので、その「読み方」もやっぱりアウトプットに比重が置かれる。「聞こえるか」、「聞きやすいか」という滑舌や声量などに関わる基礎的なものから、「(聞き手を)感動させられるか」という抽象的なものまでが朗読の目標の幅として考えられるけれど、ある文章を「読む」体験の豊かさから考えると、その幅はあまりに狭い。

 アウトプットの先に想定されるのは「まだ見ぬ不特定多数」だから、誰が聞いても「聞こえる」とか「聞きとりやすい」のは当然のこととして、その上で誰が聞いても「心を揺さぶるように」読むことがまた想定される。それは主に、「感情を込めて」「豊かな表現」をすることによって達成される(らしい)。そのための、読み方や声の出し方が技術化され、標準化が進み、身につけるべき能力や知識が増えていく。

 まれに朗読家の中に、テキストを身体化するまで読み込み、表現として標準的な枠を超えている人をみかける。そういう人の朗読は聞いていて面白いし、長く聞ける。けれど、そうやって朗読できるテキストは朗読者の嗜好や声との相性によって強烈に限定がかかる。だからやっぱり「読む」という体験からすると、やっぱりその幅は狭いと言わざるを得ない。

 
 なんか朗読批判みたいになったけど、ぼくは朗読的な読み方を否定したいわけじゃない。朗々と読み上げるというテキストも少なからず、結構な量ある。ニュースの原稿や演説や講演の原稿なんかは、アナウンサーっぽく、あるいはたっぷりと感情を込めて声にされるためにあると思う。

 でも声に出して読む行為の中心は朗読では全然ない。音読は朗読の前提や土台になるものだけど、朗読より幼稚だったり単純だったりするわけでもない。音読の中に、朗読というジャンルがある、と言ったほうが適切だと思う。
 
 おそらく学校やテレビなんかの影響で、声に出して読む=朗読というイメージがぼくの中にもあって、それが音読の面白さとか楽しさを覆ってしまっている。そんなもので(声に出して)読む楽しさに触れられないのは、なんだかもったいない。だからその豊かさや面白さを言葉にできればいいなと思っている。