そもそも言葉を扱うことには、自覚的な領域と、無自覚な領域がどちらも含まれている。
表出や精読、とぼくが言っていることは、自分にとって当たり前過ぎて気づかないような認識の外側にあるようなことまでを、微細に緻密に、あるいはバカ丁寧に、捉えるような無自覚な領域へと目を向けること。
書くときにはそれは、言葉にならないような「ナニカ」を霧を掴むような無力さの中で手応えのない霞を捉えることに似ている。読むときにはそれは、今まで当然のものとして見過ごしてきたものを揺るがすような不安定さを伴いながら自分の当たり前を見つめ直すような作業のようだ。
「構造」という言葉をぼくが使うとよく、身体感覚や直感、というものからは程遠い”頭だけの”、あるいは”思考的な”捉え方のように思われることがあるけれど、自分にとって気づかないほど当然の感覚を生み出している構造は、自分というものの一部だけを使って捉えられるほど甘くはない。感覚だ思考だ、身体だ心だ、などと分けているうちは構造なんて目に入ってきはしない。
パッと入った家から受ける印象や感覚は、足が踏みしめる床や、目に見える柱や屋根だけでなく、床を剥がさなければ見えない基礎や土台、目には見えない位置にある柱や垂木などの構造によって生み出されている。どれだけ身体感覚と研ぎ澄ましたとしても、頭を使わなければ構造は見えてこないし、どれだけ頭を使っても身に受ける感覚を微細に捉えられなければ構造を捉える入り口にすら立てない。
表現とは、自覚的であろうと無自覚であろうと、そうした構造を意思を持って生み出すことを言う。
今という時代は、「表現」といえば直接感覚が捉えられるものをどのように仕立てるのかが問題になる時代なのだけれど、そろそろその直接的な感覚がどこから生み出されているのかまでを含めた視野から表現とか伝える、伝わる、ということを扱っていっていいんじゃないのか。そのほうが面白いんじゃないのか。
というのが、通年講座を始めようとした動機なのだと今言葉になった。
自分自身を精読することによって表出される言葉を、表現しようとすること。
表現されたものが生み出された表出過程までをたどるように精読すること。
この往復が世界を豊かにする、と言って良いのではないか。
ちょっとしたきっかけがあって、こんなことを記しておきたくなって。ここに銘を刻む。
表出や精読、とぼくが言っていることは、自分にとって当たり前過ぎて気づかないような認識の外側にあるようなことまでを、微細に緻密に、あるいはバカ丁寧に、捉えるような無自覚な領域へと目を向けること。
書くときにはそれは、言葉にならないような「ナニカ」を霧を掴むような無力さの中で手応えのない霞を捉えることに似ている。読むときにはそれは、今まで当然のものとして見過ごしてきたものを揺るがすような不安定さを伴いながら自分の当たり前を見つめ直すような作業のようだ。
「構造」という言葉をぼくが使うとよく、身体感覚や直感、というものからは程遠い”頭だけの”、あるいは”思考的な”捉え方のように思われることがあるけれど、自分にとって気づかないほど当然の感覚を生み出している構造は、自分というものの一部だけを使って捉えられるほど甘くはない。感覚だ思考だ、身体だ心だ、などと分けているうちは構造なんて目に入ってきはしない。
パッと入った家から受ける印象や感覚は、足が踏みしめる床や、目に見える柱や屋根だけでなく、床を剥がさなければ見えない基礎や土台、目には見えない位置にある柱や垂木などの構造によって生み出されている。どれだけ身体感覚と研ぎ澄ましたとしても、頭を使わなければ構造は見えてこないし、どれだけ頭を使っても身に受ける感覚を微細に捉えられなければ構造を捉える入り口にすら立てない。
表現とは、自覚的であろうと無自覚であろうと、そうした構造を意思を持って生み出すことを言う。
今という時代は、「表現」といえば直接感覚が捉えられるものをどのように仕立てるのかが問題になる時代なのだけれど、そろそろその直接的な感覚がどこから生み出されているのかまでを含めた視野から表現とか伝える、伝わる、ということを扱っていっていいんじゃないのか。そのほうが面白いんじゃないのか。
というのが、通年講座を始めようとした動機なのだと今言葉になった。
自分自身を精読することによって表出される言葉を、表現しようとすること。
表現されたものが生み出された表出過程までをたどるように精読すること。
この往復が世界を豊かにする、と言って良いのではないか。
ちょっとしたきっかけがあって、こんなことを記しておきたくなって。ここに銘を刻む。
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