こちらは、通常レポートと並走する形で連載する講座の「レポート小説」となります。
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第0回
講座の告知を開始したのが11月初旬。なにか初めてのことをする場合はいつだってそうなように/なにかやりたいと思う初めてのことはだいたいそうなように、先がどうなっているのかはまったく見えていなかった。
どうしたら人が来るのか、何を言えば面白いと思ってもらえるかは分からない。ただ、本当に自分にとってのなにかを書こうとする人が集まれば、その人たちが全身どっぷりと浸れる面白い場所を作れるという確信があった。
12月に入る頃には、6人の定員を上回る8名の申し込みがあって、本当に講座が実現できること、面白いと思ってもらえたことは、やっぱり実感としては意外で、相当にうれしかった。
ぼくと大谷さんは早くも前祝いの酒を酌み交わし、採算や効率ははるか後景にかすみ、ぼくたちの思想や実践のすべての重量を込めるように、案内していた内容を大幅に上回る追加のプログラムを盛り込んだ。
グループチャットが立ち上げられ、遠隔参加のためのビデオ通信のテストを兼ねた「ネットゼミ室」がことのほか盛り上がった。
時を同じくして、大谷家の新くん(4ヶ月)が典型的なアトピーと診断される。そこから会場となるまるねこ堂(大谷家の家でもある)からは、大きな本棚が二つ姿を消し、玄関の位置が変わり、暖房器具が電気系に刷新され、ただでさえものが少なくてすっきりしていた空間は、お寺のような清浄さを保ち続けるまさに「お堂」になった。
1月に入って主催のぼくは、もう一つの会場である「スペースひとのわ」(我が家でもある)の増築をしている最中に右手の指に大けがを負って、6日間ほど入院する。まるねこ堂はまだ変化の途中で、そこからはグループチャットも、開催までを雪の下で芽吹くのを待つように静けさの中だった。
講座の初日があと一週間になって、参加者の一人からキャンセルの連絡が入る。その3日後にまた一人、キャンセル。このタイミングだということや人が減ることの影響についてはそれなりにはあるけれど、そういうことについてはどこまでいっても「それなり」で、それよりも一年ものの、来る方もそれなりの気持ちを持って申し込んでいると思っていたけれど、それぞれの事情は究極のところは本人じゃなければ知り得ずわかりえないけれど、それほどでもない場合もあるのだということが予想外の衝撃としてあった。
開催二日前、一人からご家族の事情で初回に参加ができないと連絡が入る。前日、また一人体調不良で会場に来れなくなるかもしれないと連絡が入る。直前の案内をしたら、二日目の言語美ゼミのレジュメを書いていない/(その時点で))書き上げようと思っていない参加者が多いことが分かる。
ここまでくると、ガタガタと足下が揺らぐような不安定さを感じずにはいられなかった。なにか悪い霊にでも呪われているんじゃないか。
大谷さんはこのタイミングでただ一言「まだ時間ありますよ」とだけグループにメッセージを送った。今かんがえると、怒るでも残念がるでも現実逃避するでもなく、ただそこにある事実を捉えて言葉にしただけのこの一言が傾いていくばかりの地平を引き留めた。
そこからなぜか、スポ根ドラマよろしくレジュメを書き上げようとする雰囲気が発生したかと思うと、逆にゼミに向けての熱が高まっていき、ふたを開ければ参加者は体調的に提出が難しかった一人を除いて全員レジュメを提出していた。体調不良の連絡があった参加者は前日仕事を早退して回復に努め、顔色が悪いながらも会場にたどり着いた。
ぼくたちがつくっているのは、そこに居るという土台をまるごとつくり出していくような場で、だからそこで問題になるのは、誰かと誰かがどうしたとか、人が来るとか残るとか、人と人の関係のことではもはやなくなっているのだと思う。
果たして「一緒にいる」ということそのものが問題で、たぶんただそれだけが問題で、言葉というものの深く深くのところ、その一番底にはそうしてただ「一緒にいられる」という場所があるのだと思う。
そうして一緒にいられる場所を作り出すのは、分かっていたけれどやっぱり大変な、文字通り自分自身が大きく変わるような/変えられるようなことだったんだと改めて思い知った。けれど、ひとたびその場所が生まれたなら、その場所がどれだけ豊かでおもしろいのかもよく知っていて、これからまさにその豊かさを目の当たりにしていくと思うと、というかすでにもう最初の豊かさを目の当たりにした面白さがたまらないほどぼくの体を駆け抜けている。
そんな終わった後のことはまだ知るよしもなく、あてどない不安と、けれどきっとなんとかできるという想いとを持って、ぼくは当日の会場に向かった。
つづく 第一回へ
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