絵本の次が漫画。毎週月曜の週刊誌は欠かさず、学校の図書館に並んだ戦国武将や偉人のやつはほとんど読んだと思う。
小4あたり。読書感想文で「ファーブル昆虫記」を読んだけれど、感想を書くために最後までページをめくった記憶だけがあって、何が書いてあったのかさっぱり覚えていない。
初めて活字が面白いと思ったのは、好きなお笑い芸人が書いたエッセイで。当時は芸人が本を出すのが珍しく、エッセイというものが流行っていて、有名な漫画家のエッセイを近所の人に借りて読んだのも覚えている。そのころから中高。歩いて数分で行ける本屋で面白そうな本を立ち読みするのが楽しみだった。
活字離れ。なんて言われる時代にしては、それなりに本を読んでいた方だと思う。それでも文学だとか哲学、というのはずっと離れたところにあって、わざわざ寄り付くことはなかった。いや、哲学の方は知的なカッコよさがあって、これも当時流行っていた哲学が面白くなる小説を読んでみたけど、小4のときの「ファーブル昆虫記」と同じだった。文学はだいぶ後になって。大学のときに買ったのは、なぜか海外の作家のもので、またもや「ファーブル昆虫記」だった。
そのころ流行っていた活字の多い漫画(時事問題や歴史問題を扱っていた)の影響で、そのときにはもう「ファーブル昆虫記」みたいに書いている本は、分かりやすく書く能力がないくせに、偉そうなふりをしたいために「ファーブル昆虫記」みたいに書いているに違いないと思っていたから、20代の終わりまではほとんどビジネス書や自己啓発本の類を読み漁っていた。
そんなのは当たり前の話で、文学というのは。特に日本の近代文学は。欧米で始まった産業革命の波が、資本主義といううねりをつくって押し寄せてきたなかで、どうやって言葉を使うのか。押し流されるでも取り残されるでもなく、「日本語」という世界観を確立していく過程だったわけで。方や欧米の文学を翻訳して「日本語」として読むに耐えられる柔軟性や対応力を目指し。方や江戸以前の落語や講談の語り口と漢詩を中心にした美文帳を統合した”オリジナル”の日本語の表現を目指したわけで。
しかもこの「表現」というのは、書き手の存在をすべて乗っけて為されるもので。実際、日本の近代文学の作家は、自殺をしたり、病死したり、家庭が崩壊したりする人が多い。明治維新といえば幕末の志士だけど、それは半分。体の外側だけの話で。心の内側。今の自分たちの考え方とか世界の見え方の土台を、誰に命令されるでもなく、作家の交流はあっても結局はひとり孤独に築いていったのは、近代日本文学の作家たちだと思う。
すべては「読む」という一つの体験が、同じものを面白くもつまらなくもする。分からなくても豊かな体験があったり、分かるのに味気ない体験がある。「読む」を「書く」に変えても同じ。「話す」に変えても。「聞く」に変えても。
言葉と自分の関係が世界を作っている。最初の一歩は頼りない、不安定で、吹けば飛ぶような場所だけど、足を踏み出し続ければ、広い広い場所に通じている。哲学や文学は広い広い場所の呼び方の一つなのだと思う。
今度。図書館で「ファーブル昆虫記」借りてみよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿