季節を刻む言葉の場所 第二回(6/8) レポート小説

2019年6月11日火曜日

催し

 この日は大津京からと奈良から、お二人を迎えて、ぼく、なっちゃん、いぶきの五人。
駅まで一緒に迎えにいった伊吹が固まる。はじまってもしばらくはぼくとなっちゃんの間を行ったり来たり。その往復の範囲が段々大きくなって、いつのまにか人見知りしていた二人に突進したり、窓辺のいすにつれていって一緒に外を眺めたり。

 丸く座ったあと、案内文を音読して始まった一日は、円が伸びたり縮んだりしながら、椅子に座ったり台所に立ったり刻々と形をかえながらお昼に。

こうみえてもう始まっている。

 昼食の山菜うどんを食べて、近所で積んだジューンベリーと野いちごとびわはコンポートにしたのをまた丸くなって食べていると、伊吹が膝にごろりと倒れ込んできて、そのままゆらゆらしていたらすぅっと寝息を立てていた。一声も泣かずにこんな風に昼寝をすることは普段ない。驚いたわけじゃないけど、その後に訪れた静けさがとても貴重な気がして、人と人が一緒にいるのに黙ったままでいるのが気まずいわけでもなく、一人で黙っているのとも違う静かな時間の中で久しぶりにゆっくりと息をした。

 人と人の分かり合えなさ。じぶんにははっきりと感じ取れる感覚が、人には霧に包まれたように見えも触れもできそうにない不確かさだったりすること。自分にとって不得手な感覚の方へあえて飛び込む経験が世界を広げたという人。これからそんな季節を迎える決心をしようとしている人。向こうからやってきたように訪れた沈黙の中に、向こうからやってきたように軽やかにずしりと言葉がやってくる。

 そういえばぼくにとって家を建てたり、こうして自分たちだけで暮らしを作っていく一歩を踏み出すまでは、苦手なことの中にあった気がする。こうしたい、これじゃないとだめ、これは違う、というビジョンなんて自分の中には滅多に沸かない。それほどはっきりと何かを思うときは、よほど行き詰まったときか、よほどハイになって自分を見失っているときだったと思う。だから、自分で家を作ったけどたくさんのことが人との出会いややり取りの中で決まっていった。来た人によって表情を変えるシンプルな箱みたいな家が理想だった。で、つけた名前が「スペースひとのわ」なんだから、見事と言えば見事だし、よく家が建ったものだと我ながら改めて驚いた。。

 昼寝から目覚めた伊吹がわんわん泣いたと思ったら、いつのまにか今日来てくれた二人にべったりくっついて遊んでもらっている。お向かいさんが犬の散歩に行く音を聞いて飛び出していった伊吹を追いかけて、一人がそのまま一緒に散歩に出かけていった。残った三人で話して終わりの時間が来て、二回目の言葉の場所が終わった。

夕食はコロッケ。

 つい最近できた土間のあるサンルームで夕食を食べていたら日が暮れていった。家が隅々まで喜んでいる気がした。