【音読ノート2】ぼくにとっての音読

2019年6月14日金曜日

音読ノート

 自宅兼拠点の「スペースひとのわ」で「音読カフェ」をやった。コーヒーとお菓子を出して、ちょっと音読を聞く時間。親しくしているご近所さんが訪ねてきてくれて、「面白かった」といってくれた。お世辞でも何でも、そう言ってくれるだけで嬉しいと思っていたら、夕方になって手作りの皮の小銭入れを持ってきてくれた。これはもう勘違いでも何でも、大いに喜んでしまって良いと思った。浮かれてワインを飲んでもまだ浮かれていて、この文章を書いている。

 こないだの、主催している「じぶんの文章を書くための通年講座」のときもそうだった。とくに必然性はないけれど、一番面白がれるやりかたとして、参加者の前で音読をしてみたら、思いがけない反響が返ってきた。講座が終わった後、いくつかの文章を音読してみてほしいというリクエストをもらったり、新しい企画を立ち上げることになったりした。

 こういうとき、以前なら「ぼくの」音読がすごいとかすごくないとか、上手いとか下手だとか、そういう方向で捉えていたと思う。今もそっちを向こうとする癖はあるけど、30代も半ばを過ぎて、これまで本格的なトレーニングや専門の仕事としてやってもいないことについて、客観的な腕の良さを信じられるほど、さすがにぼくも夢見がちじゃない。評価や技術について目が向くと、じぶんのやってるのはちっぽけな石ころどころか犬の糞のように見えてくる。汚らしくて穢らわしい、見せてはいけないものでもさらしているんじゃないか。

 それなのに、「音読」を人前でやってみると何かが起こる。まだそう断言できるような回数を重ねていないはずだけど、もうこれは確信になりつつある。好きだから技術が磨かれるとか、好きだから長続きするとか、これはそういう話ではきっとない。ぼくにとっての音読。ぼくがずっと好きだった音読。気づかないままにきてようやく好きだと知った音読。そういうぼくと音読との関係が、どこかで人に伝わるんじゃないかと思う。その関係がなにかを起こすのだと思う。

 これはまるで音読をする態度とまったく重ねっている。ある本。ある文章。あるテクストを、声に出して読むとき、ぼくはそのテクストと自分なりの関わり方を探している。だから相性はあるし、それを見極めることはとても重要だ。出会ってすぐに好きになり、声に出すことが心地よくて仕方がないテクストがある。そういう本は誰にだって一冊はあると思う。その一冊が声に出されている空間は、きっととても心地がいい。そんな声に気の済むまでじっと聞き入っていたい。
 そうじゃない本の場合。何度読んでも、どうやっても好きになれず、意味もろくろくわからない。そういうときぼくは、なんどもなんども声に出す。疲れたらなんどもなんども黙って読む。それでも分からずその本を枕にふて寝する。腹に抱えてぼーっとしてみる。そうやっているうちに、書かれている言葉がそれまで見せたことのない表情をふと見せるときがくる。スカスカの不安定と闘いながら、ようやく指一本、爪の先ひとつ、そのテクストの声に触れられる。何度声に出しても芯をくった手応えがなく、苦手で嫌いだと思っているテクストでも、その一点と出会い、そこに触れつづけていられるならば、ぼくはそのテクストを声に出すことが心地良い。何をどうやっても心地よさを外す気のしない相性の良い本に比べて、気を抜いたら迷子になってしまいそうな緊張感のあるテクスト。全然違う面白さ。どちらにしても、どんなテクストでも、そうやって書かれている声を自分の体で鳴らすことそのものが、プロセスも含めてぼくは好きだ。