前回(「音読の時間」の冒頭のミニレクチャーを話した感触が残っているうちに少しでも文字にしておこうとおもったら、ぜんぜん違うものが書けてしまった記事)の続き。
音読の土台は「読む」ことにある。
書かれているものを情報として扱うのではなく、「声」として読むのが、ぼくにとっての音読なのだけど、ここで初めて「テキストの声」をどうやって出すのか、が問題になる。
ぼくは自分で音読するときは、声に出しながら「この感じだ」とか「ぜんぜん違うな」とか「あと一歩だけどなんかしっくりこない」と確かめている。じゃあそれはどうやって判定してるんですか、どうやって声に出しているんですか、と言われると、これまで人に伝える機会がなかったから言葉にしたことがなかった。
「どんな声を出したいのか」については、テキストの方に要素がつまっているから、比較的説明しやすい。
寺が寝静まる。私は金閣に一人になる。(三島由紀夫「金閣寺」)
声に出してみると、文学史に残る作家の有名な作品というのは、そうなる必然性を持ったテキストによって綴られている事がよくわかる。(ぜひ小声でも声に出してみてほしい。)くっきりと、無駄のない、緊張感のある静けさの描写。こう書いてある時点で、ある一つの世界観が固まる。
これが「寺は静けさに包まれている。私はただひとり金閣にいる。」だったら、もうすこし輪郭がぼやけた感じになる。「お寺が寝息を立てて静かになりました。私は金閣に一人でおりました。」だと、さらに緊張感も消えて、物語が語られていくゆっくりした時間が流れ出す。こんな風に、書かれているテクストによって表現されている世界観を丁寧に読み取っていくことで、必然的にどんな声かは決まってくる。
ところが、「結果的に出された声」は、「テクストの声」と直接的な関係性を見いだせない。たとえば女性のセリフを音読する時、ぼくはそのテクストを読むときに浮かぶ女性(凛としていたり、ふてぶてしいおばさんだったり、清純な少女だったり)らしい声をだしたいと思い、自分の中で手応えを持った音を鳴らす。でも、実際に出るのは30代の男が喉を震わす音で、でもそれを聞いて「そうそう、そういう感触の声」と聞いた(そのテキストをよく読み込んだ)人が言ったりする。これは不思議としか言いようがない。
そんなことをどう教えるのか。そもそも「話す」という体験自体、人によって全く違う。音読についてワークショップ的なことをすると、それぞれの人の声をだすという体験の違いに毎回驚く。
こうなると必然的に、絶対に誰にでも共通していることを話すしかない。声が横隔膜から肺、喉、口腔、舌、唇、を使って出る音だということで、その使い方によって響きが変わるということだ。
空気をどれくらい取り入れて、どのくらいの量を、どこからどこへ通すのか。最も根本では、それが音の質を決める。例えば腹の奥まで深く深く息を吸い、喉を通って口から出す。これを最もストレートな(朗読的な)声とする。これを、喉を通って頭の上の方へ空気が抜けるように(高音気味に)響かせると、甲高い落語や講談師的なテキストの声に近づく。喉のやや下から舌の表面から下あたりを抜けていくように響かせると、渋みのある、落ち着いた、美文調のテキストの声に近づく。
これに、姿勢や目線を加え、最後声を押し出すところで、舌や唇の硬さ、柔らかさを調整し、抑揚やスピードまで意識する。ここまでできれば自分の身体感覚とかけ離れた遠くの声までを、自分の肉体をつかって響かせることができる。
といったものの、これはあくまでぼく自身の体感で、どんな響きが出て、どんな声に近づくのはそれぞれが実験しながら発見していくしかない。でも、空気を吸いこむこと、吐き出すこと。その経路。舌と唇と喉の筋肉を意識して音を鳴らすことは、人間として共通していて、おおよそ今言ったようなことで要素は出尽くしている。
「どんな声を出したいか」(テクストの声はどんな声か)、「どうやってその音を鳴らすか」(どの部位をどんな風に使うか)をはっきり意識すること。これは、ぼく自身にとっても、2つが明瞭であればあるほど、納得の行く声を出せる確率があがっていく。逆に言うと、2つが不明瞭さを増すほど、テキストの声を出せたという実感から遠のいていく。ぼくにとっての2つは、かなり相関性が強く、一方が明瞭になるともう一方もほぼ自動的に明瞭になるのだけれど、人によってはそうでないこともある、ということまでは現在までに確認済。
イメージとしてはテキストの声と、自分の声の間を往ったり還ったりしながら、音読を楽しめればいいと思っていて、それができれば必然的に聞き手にとっても聴きごたえのある音読ができているのだと思う。
音読の土台は「読む」ことにある。
書かれているものを情報として扱うのではなく、「声」として読むのが、ぼくにとっての音読なのだけど、ここで初めて「テキストの声」をどうやって出すのか、が問題になる。
ぼくは自分で音読するときは、声に出しながら「この感じだ」とか「ぜんぜん違うな」とか「あと一歩だけどなんかしっくりこない」と確かめている。じゃあそれはどうやって判定してるんですか、どうやって声に出しているんですか、と言われると、これまで人に伝える機会がなかったから言葉にしたことがなかった。
「どんな声を出したいのか」については、テキストの方に要素がつまっているから、比較的説明しやすい。
寺が寝静まる。私は金閣に一人になる。(三島由紀夫「金閣寺」)
声に出してみると、文学史に残る作家の有名な作品というのは、そうなる必然性を持ったテキストによって綴られている事がよくわかる。(ぜひ小声でも声に出してみてほしい。)くっきりと、無駄のない、緊張感のある静けさの描写。こう書いてある時点で、ある一つの世界観が固まる。
これが「寺は静けさに包まれている。私はただひとり金閣にいる。」だったら、もうすこし輪郭がぼやけた感じになる。「お寺が寝息を立てて静かになりました。私は金閣に一人でおりました。」だと、さらに緊張感も消えて、物語が語られていくゆっくりした時間が流れ出す。こんな風に、書かれているテクストによって表現されている世界観を丁寧に読み取っていくことで、必然的にどんな声かは決まってくる。
ところが、「結果的に出された声」は、「テクストの声」と直接的な関係性を見いだせない。たとえば女性のセリフを音読する時、ぼくはそのテクストを読むときに浮かぶ女性(凛としていたり、ふてぶてしいおばさんだったり、清純な少女だったり)らしい声をだしたいと思い、自分の中で手応えを持った音を鳴らす。でも、実際に出るのは30代の男が喉を震わす音で、でもそれを聞いて「そうそう、そういう感触の声」と聞いた(そのテキストをよく読み込んだ)人が言ったりする。これは不思議としか言いようがない。
そんなことをどう教えるのか。そもそも「話す」という体験自体、人によって全く違う。音読についてワークショップ的なことをすると、それぞれの人の声をだすという体験の違いに毎回驚く。
こうなると必然的に、絶対に誰にでも共通していることを話すしかない。声が横隔膜から肺、喉、口腔、舌、唇、を使って出る音だということで、その使い方によって響きが変わるということだ。
空気をどれくらい取り入れて、どのくらいの量を、どこからどこへ通すのか。最も根本では、それが音の質を決める。例えば腹の奥まで深く深く息を吸い、喉を通って口から出す。これを最もストレートな(朗読的な)声とする。これを、喉を通って頭の上の方へ空気が抜けるように(高音気味に)響かせると、甲高い落語や講談師的なテキストの声に近づく。喉のやや下から舌の表面から下あたりを抜けていくように響かせると、渋みのある、落ち着いた、美文調のテキストの声に近づく。
これに、姿勢や目線を加え、最後声を押し出すところで、舌や唇の硬さ、柔らかさを調整し、抑揚やスピードまで意識する。ここまでできれば自分の身体感覚とかけ離れた遠くの声までを、自分の肉体をつかって響かせることができる。
といったものの、これはあくまでぼく自身の体感で、どんな響きが出て、どんな声に近づくのはそれぞれが実験しながら発見していくしかない。でも、空気を吸いこむこと、吐き出すこと。その経路。舌と唇と喉の筋肉を意識して音を鳴らすことは、人間として共通していて、おおよそ今言ったようなことで要素は出尽くしている。
「どんな声を出したいか」(テクストの声はどんな声か)、「どうやってその音を鳴らすか」(どの部位をどんな風に使うか)をはっきり意識すること。これは、ぼく自身にとっても、2つが明瞭であればあるほど、納得の行く声を出せる確率があがっていく。逆に言うと、2つが不明瞭さを増すほど、テキストの声を出せたという実感から遠のいていく。ぼくにとっての2つは、かなり相関性が強く、一方が明瞭になるともう一方もほぼ自動的に明瞭になるのだけれど、人によってはそうでないこともある、ということまでは現在までに確認済。
イメージとしてはテキストの声と、自分の声の間を往ったり還ったりしながら、音読を楽しめればいいと思っていて、それができれば必然的に聞き手にとっても聴きごたえのある音読ができているのだと思う。
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