【音読ノート1】音読が好きだ

2019年6月12日水曜日

音読ノート

 書かれている言葉を声に出す。なんということのない。単純な。というかむしろ、どこかクソ真面目な雰囲気すら漂ってしまっていて、ちょっと陰気でオタクっぽさすらある、「音読」がぼくは好きだ。

 好きだと言うことに気づいたのは最近。長く見積もってもこの三年くらいのことで、気づくことができたのはぼくの音読を聞いた人が、あるときは控えめに、ある人ははっきりと、「あなたの(声に出して読む)読み方はいいよ」と言ってくれてやっと、「そういえばぼくもこの感覚が心地よくて好きだな」と思うようになったからだった。「読み方がいいよ」というのは、もしかすると「すごい」とか「他の誰とも違う」みたいなことを直接に、あるいはそういうニュアンスを含めて言ってくれていたような気もするけど、「いいよ」というくらい標準化されて、方向感だけ抽出したような雰囲気しかぼくの記憶には残っていない。自分にとって無条件で面白いことというのは、否定であれば跳ね返すのだろうし、賛辞であっても聞き流してしまうものなのかもしれない。体にとってそうなように、心にとってもデリケートな場所というのは、刺激そのものを好まない、なんていうとそれらしいから、今はとりあえずそういうことにしておく。

 好きだと気づいたのが最近だから、ずっと好きでいた記憶についてはそれほどはっきりとしていない。国語の時間。文や段落ごとに教科書を読む順番がまわってくるとき、できるだけ長いところが当たるよう願っていたと思う。その場をやり過ごすための平坦で投げやりな声がもどかしかったと思う。英語の教科書の場合もそうだった。発音のことに詳しくもないくせに「その文章はそんな風に読まれたがってないよ」と思っていた。でも当時は「自分の方がもっとうまく読めるのに」という言葉になるかならないかの感覚が流れるだけで、とりたててそれをすくい上げようとも思わなかった。それをキャッチしたとしても「たかが文章を読むことにこだわるのは自意識が過剰なだけだ」ということにして、すぐに手を離した。
 「自意識がいくら過剰だったとしても、音読にこだわるようにはならないよ」今なら簡単につっこめる。過剰だったのは、文章を声に出すという行為に対しての思い入れだったわけで、それを一言で言えば、ぼくは音読が好きだった。昔から。ずっと。

 「音読」とわざわざ言っているのにはわけがあって、ぼくが好きだとはっきり言える強さを持っているのは「音読」だ。最初からなぜか、ぼくは「朗読が好きです」とか「読み聞かせが好きです」と言う気にならなかった。「音読が好きです」となら、今はけっこう力強く言える。言ってみると、なぜか愉快になる。でもちょっとくすぐったい。やっぱり心のデリケートな場所は刺激を好まないんじゃなくて、刺激に弱い。もしくは慣れてない。ということなのかもしれない。触れられることは恐ろしい。誰にでも触れられるような状態にしておくことは恐怖でしかない。だから。そういう場所を、刺激に慣れながら、かといって麻痺させるのでもなく大切にし続ける人は、見ていると勇気づけられたり、心地よかったりするのかもしれない。最近、遅ればせながらよく見るようになったHIKAKINの動画は、そういう雰囲気があるなと思う。