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2019年2月16日土曜日

「書く通年講座」 レポート小説 第1回

比良から車で一時間。「まるねこ堂」についたのは11時ごろだった。

抱えていた伊吹と荷物を下ろしていると、伊吹が「まるねこ堂」の200人目の来場者だったらしく、さつまいものプレゼント。この一週間はキャンセルの対応や参加者との直前のやり取りがあって、大谷さんは昨晩はほとんど眠れず、寝ている顔もゆがんでいたらしい。そんな中でさりげなく行われたお祝いの時間は、一年ものの緊張感の高い講座のスタートさえ、この場所の営みの只中にあるということを象徴していて、世界のあり方を反転させるような重力を持っていた。

一般的に催しを開く場所は「会場」と呼ばれている。だから講座を開く場所である「まるねこ堂」のことをぼくは会場と呼んでいて、困ることはない。困ることはないけど、少し離れてみてみれば/何も知らない誰かがその様子を見たなら、おもしろいほどありえないことが起こっている。

主催として口火を切るぼくにはまだ、そのありえなさははっきりと見えず、現実に講座がはじまったことへの安堵のせいか、これから始めますとか来てくれてありがとうとかフワフワと語った。そのぼくの声を断続的にさえぎるのは、新くんが「アー」「ウー」とのどを鳴らす声と伊吹が誰彼かまわずかける声や拾っては投げているおもちゃが床を叩く音。ぼくに続いて一言ずつ話してもらう参加者のうち二人はネット越しに声をやり取りしている。真後ろにはキッチン。ビデオ通信に加えて子どもがいるというのは思っている以上に声を張るらしく、話し終えて妙に疲れる。

この講座は講師の大谷さんと主催の僕の家族や家・暮らしが丸ごと入ったものとして/丸ごとを土台として開催していて、集まる人はそれを前提として来ている。来ているというか、事前に説明をしたり承認してるわけじゃないから、勝手にぼくらの日常を前提として引き受けてもらっている。いや、引き受けてもらっているというよりは、そもそも日常の中で開催されている催しに来たいと思って来るということが、そこに集まる人の暗黙の前提を作り出してその場所自体を構成している。

日常の影響を限りなく少なくするやり方が反対側にあることは十分知ってはいる。いるけど、いいとか悪いと正しいとか間違っているとかいう以前に、これが最も自然でおもしろく、ぼくらにとって最もおもしろいやり方だと今では確信すらしている。

言葉にならない言葉を/じぶんにとって言わねばならないようななにごとかを、書くというのはそういうもので。「書く」ことをする人の最も基盤となってしまうのはそういうことで。たとえば妊娠して子どもが生まれるとか、生まれた子どもが歩くようになるとか話すようになるとか、転職するとか、風邪を引いて寝込むとか、大けがをして入院するとか、じぶんやじぶんの周りに居る人に起こるすべてのことが「書く」という行為の中に入ってしまうことなのだと思う。

だから家を会場にしてるんです、なんて分かりやすい因果関係を結ぶつもりはないけれど、言葉の持っている豊かさとか言語の営みの広大さを考えていくと、そこにはなにもかもが含まれてしまうような雑多な、無限の懐の深さがあって、そういう思想的な本質を実際にやるとこうなるはずで、起こることのすべてがおもしろい。

ある一人の人が生きている中で、好きだとか面白いとか、つまらないとか分からないとか思うその一つ一つは、どれほどささいだと周りが思っても、ささいすぎて本人が見過ごしてしまっていても、一目を置くのに値するような意味や価値が必ずある。世界でその人しか知りようのないそのことを、もしも世界に輪郭を持って表すことができたとしたら、それは間違いなく世界を豊かにする。そのためにはでも、たった一人で形のない霧を掴むような孤独な時間が必要で、きっとこの講座はそんな孤独な時間を過ごしてきたもの同士が、何を見たか、そのときに何を思い感じたのかを報告し、語り合い、ときに全然関係ない話をしたりしながら、また孤独な時間へと戻っていく力を溜めるために開かれている。

そのための場所を大谷さんとぼくはつくっていて、参加してくれてありがとうとか、来てくれてありがたいとか、そういう次元の話じゃなくって、ここに来たあなたこそが「この場所そのもの」なんだよ、ということをぼくは最初に、口火を切ったときに言いたかった。けど言えなかった。それが今更ながら悔しい。豊かさって奴はそんな悔しさだって含んでしまっていて、きっと奴の前では善悪や正誤もその一部でしかなく、なんでもかんでも色とりどりの出来事になってしまう。

たぶんきっと、そんなことを「基調講演」で大谷さんが話し、「持ち寄り食会」では豊かさを食べ物として実現し、「ゼミ」で持ち寄ったレジュメは豊かさを言葉として表現したときに何が起こるのかを象徴していた。

昨日、初回に来れなかった一人は、遅れてレジュメを書き、それをグループチャットに共有した。終わったと思っていたゼミの時間が遡行してまた意味を変える。そういえば遠隔でビデオ通信をした二人のことを、ぼくは確かにあの場に居たと思っている。雑多で混じりっけの多い言語という場所は、物理的な、直線的な時間や空間をいともたやすく越えていく。

第1.9回へつづく 

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”通常版”のレポートも併せてどうぞ。
第1回レポート

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