「書く通年講座」レポート小説 第4回 その一

2019年5月23日木曜日

通年講座レポート小説

 講座の提出物には締切が設けられている。それは規律を守るためとか、開催する側がやりやすいようにとか、参加者みんなのために、という理由から作られたのではなく、「書く」ことにとって締切というものが大きな影響を与えていて、その影響というやつをちゃんと実感できるようにという思いから設けられた。

 単に締切があるから書くための圧力が高まるのもその一つ。でも本当に味わい深いのは、一つの文章を書き終えたときの高揚した気持ち。達成感。それが人に読まれるものとして手元から離れた事実が後から巡らせる書いたものへの余韻、そういうものだったりする。

 全部合わせると結構なボリュームの文章を印刷することや、当日は話すことに集中したいからできるだけ読むのは当日までにしておきたいという主催としての願いはある。でも、だからといって締切から遅れたこと自体は、特別何かを言うようなことではない。

 ただ今回は、心身の体調が思わしくないから講座を続けられるかどうかと相談したばかりのさくらさんと。妊娠も7ヶ月目に入ってそろそろお腹も大きくなってきただろう(最近はZOOM参加で直接会ってない)かなちゃんが精読講座の文章を提出する回で、締切を過ぎてグループチャットのメッセージも沈黙したままでいる時間、じつはかなりドキドキしていた。

 だから二人からの文章が無事に届いたときには、締切なんかどうでもいいくらい、ほっとした。

 講座の時間は限られている。書かれたものを読む、それについて言葉を交わす、そういうことに集中しているとあっという間に過ぎていく。通年講座はどこにいても、どんな状況でもそうやって没頭していられる場所としてある。
 この場所のことを妊娠していても子供がいても誰でも居られる場だと書いた気がするけれど、実はそういう場所に「居続ける」ことはけっこうタフなことなのかもしれない、と最近は思う。

 どんな状態でも、どんな環境の中でも、そこに居たいと思う限り居てもいいというのは、裏返せば、居続ける意志を持てなくなったら、その場所にいることはできない、ということでもある。その場所が嫌いになるとか、もう居たいとは思わない、という逆のベクトルの意志があるなら案外爽やかにそこを立ち去れる気がする。でも実際に差し迫りうるのは、居たいと思える精神や肉体の力がどんどんと目減りしてギリギリのところでそこに居るかどうかを決めなくてはならないような状況なのだと思う。

 そんなにまでして、一体どんな講座なんだよ、という感じもするけど、実際参加者は、家族が入院して最後を看取ったり、転職活動をして職が決まったり、妊娠中だったり、体調不良で動けなくなったり、する人がいて、それぞれにそれぞれの日常を生きている。

 いったい、「書く」ってなんなんだろう。

 そんな状態で、そんな環境の中で、「書く」という必要性は、たぶんない。それでもここには「書こう」とする人が集まって、そのために読んだり書いたりしている。日常をこなしていくためにはまったく必要のないこと。なのにそんなことをしようとするのは、それが「生きる」ことにつながっているからなんじゃないかと思う。

 精読講座に提出された文章を読んで、そんなことを思っていた。



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