「書く通年講座」レポート小説 第3回

2019年4月25日木曜日

通年講座レポート小説

 はじまるときにどれほど産みの苦しみがあっても、三回もしていると慣れていくのが人というもの。

 精読講座でのコメントの仕方にそれぞれのスタイルを感じるようになってきたり、暗黙の内に全員が共通して取り上げるものがでてきたり、ゼミで講師の大谷さんがどんなことを言うのかを楽しみにしたり、はっとするようなことを言うのを期待するでもなく、でもなんか面白いこと言わないかな、言うんだろうな、という自覚にものぼらない流れとか重力がいつのまにかそこにある。

 ぼくがそういう雰囲気に特別敏感なだけなのかもしれないし、たぶんそうなんだろうけれど、だとしてもきっとそれは悪いことではなくて、講師の言葉に重みが出るとか、参加者が文章の読みどころを押さえてくるというのは、主催者としては講座がやりやすくなっているのだろうし、分かりやすい講座の効用や意味が表れてきているということで、それ自体は楽しい。

 でもこれは「じぶんの文章を書く講座」で、言葉とか言語の営みをできるだけ誠実にそれぞれが表現しようとする場合、こういう一つの方向に収斂されていくような「なにか」というのは、最も気をつけて扱わないといけない。いや、いけないことはないけど、気をつけていくと面白くなるし、気をつけずに流されるとつまらなくなるんじゃないかと思う。


 そういうことをはっきりと意識することになったのは二日目、ゼミの後半。大谷さんがぼくの書いたレジュメについて違う見解を並べたときだった。特別否定するでもなく「けんちゃんはこう書いてるけど、ぼくはそうじゃなくてこう読めると思いますよ」というような、普段なら気にもとめない柔らかくて誠実な言い方だったのだけれど、「ぼくは間違ったことを書いてしまったんだな。」と言葉になる前の、なんとなくバツの悪い感覚が体を巡った。

 指摘されたのは最後に書き添えるように付け足した部分で、改めて見ると大谷さんの言っていることがどう読んでも正しい。本に書かれていることを扱ってるのだから、それは確かめてみれば誰でもそう思えるほどはっきりしている。こういうときぼくは、次は間違えないように読もうとか、どうやったら大谷さんのように読めるだろう、などと考えたくなるけど、そっちに行っても絶対に面白いことにはならない。それだけははっきりしていた。だからといってなにをどうしたらいいのかは分からない。でも今、このときが、主催者として、自称最も危険な参加者として重要な場所に立っていることはわかる。

 で結局。ぼくは、なんでそれをそう書こうと思ったのか、大谷さんの見解を聞いてどう思ったのか、さらに何か言いかけてやっぱりやめておく、と歯切れの悪いことをバラバラとだらだらと話し、だれから何を言われることもなく、その話題は過ぎていった。

 その後、なぜかぼくはゼミがどんどん面白くなっていって、みおちゃんのレジュメで短歌を散文に書き換えた箇所をとつぜん音読してみたり、じぶんなりに散文をアレンジしたバージョンでさらに音読してみたり、人のレジュメに好き勝手コメントを言ってみたり、ゼミを堪能していた。さとしの質問に応える中で、大谷さんと二重奏のように同じことを別の角度から話したりする場面もあったり。

 終わってみれば、講師とか主催とか関係なく、それぞれの読み方はそれだけで面白いし、レジュメとしてそれが書かれているものはもう本当に面白い。基本的に好き勝手に読めば良いんだし、好き勝手な感想を持つしかない。でもそういう中に「本好き」の大谷さんみたいな人がいるのはありがたいことで、勝手すぎて変な方向に行こうとするのを「ここはこうとしか読めない」という場所にアンカーを置いてくれる。というかそれをするのが講師の根本的な役割で、そういう人がいるからこそ参加者はどこまでも好き勝手に読むことができる。

 とすると、アンカーを引きずるほど好き勝手に読むのが主催の仕事な気もしてきて、次はもっと盛大に間違えてやろう、なんて思うと次回が楽しみになってくる。