入院生活3日目を送ってます

2019年1月13日日曜日

金曜日に電動工具で大怪我をしてしまって入院している。

怪我をしたのは右手で、危うく中指がなくなるところだったのを、少し短くなる程度に手術を施してもらい、今のところ幸い指は全て無事に治る見込み。

手術をしたのはもちろん、車輪付きの担架のようなものの上に寝ながら運ばれるのも、入院をするのも初めてで、別にこんな経験得ない方がいいと思うけど、得がたい経験をしたと思っている。

指が落ちたからといってすぐに死ぬわけではないけれど、時代が違えば、あるいは日本のような医療システムや機関の設備などが整っていない場所であれば、指の治療はおろか感染症や化膿によって最悪命に関わることになっていたかもしれない。

少なくとも一晩明けるまでの間は身に迫る痛みの中で、精神的にも日常とはかなり違うモードに入っていることが分かっていた。だからといって別に神の声が聞こえたとか何とかということではもちろんないんだけれど、生死の狭間は自分の存在に最も接近した領域だから、普段からの信仰や信じている思想によっては、その時の思考を〇〇の声が聞こえたというだろうことは想像に難しくない。と言うよりも、それくらい強烈に自分の外側から聞こえたりしたように解さなければ、危機を脱した後に人に説明するほど強くは残らない。

僕の場合は一晩たって翌日の昼過ぎには、身体も平常運転に戻って回復モードになっていた。手術室でワーっと広がっていた思考や心的な景色は理屈や理論で復元したり理解したりできるものじゃないから、その時にはあれは何だったんだろうという感じで、人に話そうにも脈絡がない奔放な思考と景色をまず、自分がどうやって言葉にしたらいいのか、そもそもできるのか分からなくなっていた。大半の人がたどる経過もこれと同じじゃないかと思う。何の手立ても打たなければ。

普段ものぐさな僕でも、今回ばかりはこれが今しか書き留めららない状況であり、その状態に入っていることくらいは流石にわかっていて、とにかく書き留めた。以下その時に記したことを編集して転載する。入院してからの出来事も書き溜めてあるのでそちらは機会があらばこちらに投稿します。


きっと、世界は意志によってつくられている。

手術室の天井を見ながら、高機能な近代的医療設備が揃った部屋の中で医師が一名、看護士が二名、そして遅れて来た医師がもう一名、見事な連携をしながらスピード感を持って準備をし、施術を進めていく。ご丁寧にオルゴール調のヒットソングメドレーがパソコンから薄く流れていて、時間制限のないイントロクイズをすることで何度か気を紛らわすことができた。

やりたいことをして、好きなことをやっていて、無様に怪我をして連れてこられたこの部屋は、僕の全く知らないところで、何の関係もなく、今こうして指がなくなりかけた僕を治すために、医療の発達が積み重ねてきた道具や設備と、それを扱う技術と知識をいく年にもわたって身につけてきたスタッフが全力をあげる場所として力を発揮している。

現代医療の生み出すものは僕の望まない現実や構造を生み出していることも知っている。

そう言うことも含めて、自分もそうであればいいなと思うし、そうありたいと今思う。

そこに訪れる人にとって実繁る森のような豊かさを讃えているような。たとえそれが誰かにとっては望まない現実を作り出しているとしても、それが僕にとっての自由。僕が許すとかそんな問題ですらないけれど、誰かの作り出している現実も善かれ悪しかれそういう森をせっせと繁殖させている。

この痛みが僕を現実に強く引き止め続ける。それでも僕はそのしがらみを引っ張り、撓めながら、こうして一文字一文字と遠くへといく。

というかそもそも、誰一人として反対や望んでいない現実を含まないことなど、ない。僕が存在しているということが根源的にはそのどちらをも含んでいる。

良い本とは、そうして作られた森のようなものなのだろう。そこにどうやってアクセスし、その中でどんな場所でくつろごうと泣こうと感動しようと感銘を受けようと、ただただその豊かさだけを讃えながらある。何も言わない。ただそこにある。

ただ一つ、その世界への扉は綴られた言葉によって、言語の営みによって開かれると言うことだけが、はっきりとした入り口として、制約として、鍵としてある。