「書く通年講座」レポート小説 第7.1回 講座の後で

2019年9月1日日曜日

通年講座レポート小説

 ゼミの後半で出てきた「この本やばいこと書いてあるって分かるよね」という大谷さんの言葉は残念ながら僕には全くわからないのだけれど、聞くとか読むとかいう体験の違いからすると、ぼくは大谷さんが読むように、人の話を聞いている、のかもしれない。
 あくまで小説ですので、作品としてお楽しみください。

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 NPOで働いていて心の根っこが悲鳴を上げたのは、その場をなんとか乗り切るような仕事をしなければならない団体の、業界の、雰囲気そのものだった。NPO、といってもぼくがいたのはいわゆる事業型NPOという、当時30代前後の若手が創業した団体が多い系統に属していて、まだNPOという言葉すらなかった時代から市民活動とかボランティアの草の根を広げてきたような系統とは違っている、ということくらいは断っておいたほうが良いかもしれない。

 国や企業など、世の中の中心を担っている機関が扱いきれない課題を発見して解決する組織が、その場を乗り切るために細かいことに目をつむりだしたら、その課題は誰のもとへ行くのだろう。あるときは自己責任になり、またあるときは、次の世代へ先送りされたりする。あるいは根本的な解決をしてくれる誰かがあらわれるまで放って置かれるだけなのかもしれない。だとすれば、世の中を変えるとか、世界を良くする、などと言わないほうが良い。それはただ、企業や国が目を向けないようなニッチな産業で、非営利という看板を掲げて行われる営利的な活動に過ぎないのだから。単なる語義矛盾というよりは、非営利組織という団体の存在の矛盾で、その矛盾を少しでも正すために自分なりに手は尽くしたけれど、猫を噛むどころか、アリのひと噛みにすらならず、本音で語り合える場所へと希望を移した。

 心理学をベースにしたそこでは、先送りや無かったことにするような雰囲気がなく、これが理想だと思った。そうやって人と人が話していけるような場所を、ウイルスのように広げていければ、結果的に世界は変わるんじゃないかと思った。
 が、蓋を開ければお金を払う参加者に対して、一定の期間開かれる場所だけが純度高くそれを実現する可能性を持っているだけで、その純度もそれを開く人の心持ち一つでいかようにも変わり、本人が自覚していないような倫理観や好き嫌いによって、その場が支配されていく様を目の当たりにした。というか真正面からぶつかって、まさに自分が、支配の真っ只中に立たされ、生気を失って退場した。
 
 その場をより優位な立場で切り抜けること。その場を切り抜けたときに、今より良くなっていること。自分が憧れ、なろうとし、実際にやろうとしたことが、そういうことの模倣だと気づくのは内臓が引き裂かれる。いや、すべてがそういうわけじゃなかった。一つ一つ積み重ねるようにその場を丁寧に終える現場も見てきた。けれど、最終的には、最後の最後に流されてしまう姿。
 結局ぼくが関西に来て学んだのは、その場の切り抜け方でしかなかったのか。そうならないように、そうじゃないように、その場その場で必死に抵抗し、考え、行動し続けてきたけれど、それもその場を乗り切ればいいという人たちに対応するために、その場を乗り切ってきたようなものだったんじゃないか。

 今、残っているのは、これまで書いてきたこと、読んできたこと、その中でわかってきた僕にとっての音読。自分で立てた家。

 なんにもない、とも言えるし。ここから始めるのだと思えば、十分なものを与えられているようにも思う。

 
 大谷さんは、本を読むときにこの本は自分にとって抜き差しならない何かが書いてあると直感するという。僕は人と話していてそういう感覚になることはたまにあって、これまでそれほど自覚していたわけじゃないけれど、今回はまさに大谷さんと話をしていてそうなった。大谷さんには全くその気はない。でも、大谷さんが話す言葉がぼくの核心に突き刺さる。

第8回へ続く
 
第7.1回 講座の後で
第6回番外編 古代詩の音読 参考とやり方
第5回(2) 言語美ゼミ 
第5回(1) 音読の時間 
第4回 その一  
第3回
第3回レポート その二
第1回レポート