「書く通年講座」レポート小説 第4回 その二

2019年5月24日金曜日

通年講座レポート小説

 言語美ゼミの補講。大谷さんが口火を切る。

 「ある中学生の女の子がいました。その女の子には好きな人がいて、思いを打ち明けられていない。それを見た友達が、気をきかせて、お膳立てをして、その意中の人を眼の前に連れてきた。で、早く言いなさいよ、言いなさいよ、と促した。
 でもそこで実際にその女の子が何かを言うか言わないか。言うとしたら何を言うか、ということには千里の径庭(けいてい)がある。」

 午後のゼミ、フリートークの時間にも、この話をしている大谷さんを見て、「こうやって同じ話を、初めて話すみたいに何度も繰り返せる人のことを講師と言う気がする。」と思ったことはさておき、ぼくにとって何かを表現するとか、何か始めようとしていることを伝えるのは、この女の子のように、千里の径庭を飛び越えていくことだな、と思う。
 自分が何かを好きだとか、面白いということを人に伝えることは怖い。でもそれをどうやって表現するかに、ぼくと世界の関係がギュッと詰まっている。 

 ということは、ゼミのレジュメはぼくにとってラブレターのようなものかもしれない。この場合宛先が誰になるのか言いにくいけど、強いて言うなら世界宛。

 まったく今回のゼミのレジュメはどう書いていいのか分からなかった。何度も何度も読んだ本だから、書いてあることは理解できる。長く書く力もついてきたから、書こうと思えば結構な文量を書くこともできる。でもそれが書きたいとは思えなかった。

 困り果てて、引用されている明治の巨匠たちの文章を一つずつ音読していった。いや、音読しようとしても漢字がわからず、スマホで漢字を調べては嫌になり、もう一度気合を入れては嫌になり、を繰り返していた。

 音読してみる。音読自体が面白くって、レジュメはその余韻でササッと書き上げた。発表の10分や15分では、半分も音読することはできない。どうせなら時間いっぱいつかって音読をしてやろう。

 ぼくの音読が終わる。最後の人が発表を終える。果たしてぼくの告白は、どうだったのか。

 大谷さんが何か言うことになって、気を抜いていたぼくに「ここ音読して」と言っている。気は抜けていたけど、これ読んで、と言われて読むのは好きだ。やってやろう。と思ったらその後何冊も読ませられる。まあでも、何冊だとしても音読することは好きだ。

 終わってさとしがぽろっと、音読面白かった。トミーさんが相乗りして、その話題を広げる。話題は、ぼくにとっての読むこと、音読(よ)むこと。大谷さんにとっての読むこと。一人ひとりにとっての読むという体験、へと移っていく。少し興奮しながら進んでいくその展開自体が面白い。

 ぼくの言葉に、世界はからからと笑って答えた。ぼくもからからと笑う。

 講座の終了後、言語美ゼミに参加者としてきている奥田さんが音読して欲しい本があるという。ベンガル語を話す両親のもと、英語で育ち、イタリア語に恋をして家族で移住した女の人の書いた本だという。性別はおろか、言語も、ワールドワイドな人生も、ただただ自分とかけ離れているとしか思えない人の書いた本。しかもとっても気に入ってるっぽい本。

 思い入れのある本はそれだけで当たり判定が厳しい。微妙なズレがどうしても気になったりする。とはいえ、ぼくがやるのは一つだけで、テキストを声に出すこと。出した声によって引き起こされる世界の揺れを感じること。声にしてみると意外にも、すんなりと音になっていく文章だった。初見でスラスラと音読できる。これは相性のいい本だ。

 奥田さんの中にある声ともズレはないみたいで、調子に乗って「ほかに好きなところあるんですか?」とか話しながら、そのあといくつかの文章を音読する。

 講座の日はいつもそのまままるねこ堂に泊まっていて、夜中まで話すこともしばしば。でもこの日は11時を回らないうちに、電池が切れたように眠った。

 翌朝、大谷さんとみおちゃんと、また音読の話にななる。みおちゃんが今度ゼミをしたいという「コーラン」を皮切りに、旧約聖書、古事記と、音読していく。当たり前だけど、気候や風土の違いなのか、それぞれまったく違う世界観がある。

 講座みたいに、大谷さんが解説、僕が音読するラジオ番組みたいなのをやろう、なんて話して、手探りで一つ動画をとろうとしたら、いつのまにか音読ユーチューバーの動画になっていた。最初に思っていたのと何かいろいろ違うけど、これは面白くなりそうだ。

 まったく、千里の径庭を越えると、何が起こるか分からない。

第5回(1) 音読の時間 につづく

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