暮らしの中の心的裁判録

2019年2月17日日曜日

朝から頑張ってこんぶを食べ、自力整体のDVDを見る。そう頑張っていた。けれどその時はまだはっきりと意識はしていない、食べたいわけではないのに、骨の治りに良さそうだから進まない手を動かし、ちょっと面倒だけどパソコンを開き映像を見ながら身体を動かした。

伊吹がまとわりついてくる。何回目かに遊んでやろうかと思いつつ、あと少し、あと少しと続く動作を続けた。

足で右指を強く踏まれる。
ここしばらくは無かった激痛が右指に弾ける。痛みでうずくまってる僕の隣になっちゃんが来て背中をさする。伊吹は何かが起こったことだけは分かって固まっている。

痛みが落ち着いてきて、なっちゃんが伊吹にごめんなさいしてくるように言う。頭を撫でにくる伊吹の手を受け入れることなどできない、と思うことさえ遠く、反射的にその手を振り払った。

指の骨が治る見込みを医者は五分五分だと言った。最後の診察では見込みが低くなっていることを語らずして語った。何をしたら良く、何が間違いなく悪いのかはっきりとは分からない。それでもできることはできるだけやろうと努力する。でもそれが本当に良いのかは分からない。反対から見れば足で踏まれたことが痛いからといって、絶対に悪いのかどうかもわからない。むしろ良くなる可能性も、まずありえないだろうけれど完全に否定することはできない。

理屈を頭で追いかけても痛みがここまで頑張って来た気持ちを裏返す。伊吹の顔も見れない。DVDを止めて伊吹と散歩に行く、小雨があがって回復しつつある外の道を歩く姿が流れ星のように片隅を流れていく。

目の前の裏返った景色は、頑張ったことを台無しにした責任を誰に取らせるか、誰が取るべきかを探すのに忙しい。
まだアクセントの微妙にずれた言葉を話すだけの伊吹でも、手を怪我していることや右指に気をつけることくらいは分かっているはずで、なのにわざわざ右手の周りを歩き回っていたのだから、十分に責任能力はあると言うべきだ。と被告が主張する。

それでも右手のことを考えた行動をできない被疑者は、こちらの言うことを何一つ解することなどできず、したがって今後は言葉による説明など不要で力や暴力によって関わるのを妥当とする。と裁判官が判決を下す。

理解しているのを根拠に、理解していないものとして責任を取らされる幼子は、人間未満動物以上の生き物として刑を執行される。

無茶苦茶だ!と言う傍聴席の声は階下には届かない。事態を覆すためにできることも為すべきことも何もない。

重い手を引っ張るように身体を探りメモを取り出す。意味も価値も効果も何一つ見込むことはできないけれど、ただここの場所からこの景色を書くことだけが、かろうじてできる唯一のことだった。『朝から頑張ってこんぶを食べ、・・・』

起こった事実もじわじわと続く痛みも、何一つ変わらないのに全てがもう一度裏返って何もかもが変わる。

伊吹と目が合う。

怪我をしてから何故か普段人にあげることのない自分の好物をぼくにくれる彼の手がクッキーを差し出す。迎えにいったくちびるが手の先とふれる。