前回の講座が終わった後から、ぼくと音読との関係が一気に外側に広がっていって、いつのまにかぼくは「音読家」と名乗っている。一応、人に何かを教えたり、自分の音読を聞いてもらう機会が増えていく以上、というかそうすると決めたとたん。気にもとめなかったことが気になってきて、方っぱしから目を通していく。
「音読」と銘打って表現をしている人は今の所見当たらない。それで「朗読」について調べる。Youtubeにあがっている朗読を聞いてみる。
少なくとも朗読にはプロと称する人がたくさんいて、調べてみると「朗読」と「協会」の2つが入った名前の団体が7つも8つもあって、「朗読検定」というものもあるらしい。せっかくなら検定を受けてみたいと思う気持ちもあって、更に調べていく。
「鼻濁音」や「母音の無声化」なるものが、必ず出てくる。あとはアクセントと滑舌。朗読と音読は、辞書によっては読む対象の違い程度しかなかったり、そもそも違いは曖昧だと説明しているサイトなんかもあるけど、ずらりと並んだ協会はすべて・朗読のプロと称する人は口をそろえて「聞いてもらうためにするのが朗読で、そうじゃないのが音読」だと言う。
図書館で上限まで朗読にまつわる本を借り、朗読が上達するレッスンをやってみる。早口言葉、発声練習、テキストへの記号付け。どんどんつまらない。
ていうか、ウェブでも本でも短い文章レベルで発音とか発声とか練習させるのって何なの?長い文章を切り取ってるなら本文のテキストの声はどんななのかによって、全然違う言い方になるんじゃないの?練習用に作ったのだとしたら、そんな文章を声にする意味ってなんなの?いやいや、ちょっと熱くなったけど、別にケンカしたいわけじゃない。落ち着こう。
そういえば、ほとんど声を出すところからスタートしてるけど、読むことについては、読むっていうのは当然文字を読むことですよね。だから書かれた文字をきれいに発声しますよね。と進んでいくけど、「読む」ことについては触れている人はいない。
いやまてまて、何人かいた。っていうか一人かな。あ、二人。「朗読向きの文章とそうじゃない文章がある」、「声に出されるように書かれてなければ美しくない」。んー、そうなの。そうかな。いやでも、デリダの文章とか、保坂和志の明らかに声に出されるように書かれてない文章とか、良いんだよね。好きなんだよね。美しくないかも知んないけど。美しさとは別の良さがあるっていうか。
っていうか、どんな文章だって声に出して読めるんだから、その文章にはその文章なりの読み方ってのがあるはずでしょ。それを最初っから除外するってどうなの?どうなの!?狭いじゃん、そんなの。
って、いやいや。まただ。じゃなくて。
こうなるともう。これは。もう自分で考えるしか無いよね。朗読と音読。何が違うのか。もうさ、朗読をやっている人には、こいつドヘタだなって思われても仕方ない。っていうかむしろ、そう思われるくらいのほうが良いんじゃないの。そうそうそう。それが音読だ。なんてさ、言ってみたり。
までも、レクチャーって言うからには、もうちょっとなにか、声にするガイドになるようなものをー、ってあれ。あれあのほん。なぜか妙に良かったよね。いきなり発声を解剖図から入るやつ。鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」。
このあたりまできて思い出したのは、何年か前に大谷さんが「これで文章のテクニックとか、how toにまつわることはすべて放り投げることができた」と、まだ「書く講座」と呼ばれていた「精読講座」の前だか後に言う姿だった。
そもそも、ぼくはどんな文章でも声にすることが面白くて楽しい。それは傍から見ていてもそう見えるくらいには、密度なのか純度なのか、なんかそういうものがあるらしい。下手な技術と引き換えにそれを失ってしまうわけにはいかない。というか、それだけできっと十分で。まあでも、その密度だか、純度だか、なんかそういうものを言葉にすることが難しいというのはあるんだけど、そういうことなら今まで散々やってきていて、ここが踏ん張りどころだった。
終わった後何日かして、何人かが当日の感想を書いてくれたのだと、あの日の自分に伝えたらホッとするだろうか。「あぁ、そう。そりゃうれしい。」とかいいながらでも、やっぱりそれが本当に目の前で起こるまでは信じられず、緊張の余韻や不安をまぎらわすようにウイスキーを一本、二人で空けるだろうか。手放しで喜ぶ勢いでやっぱり同じように1瓶を空けるだろうか。
翌日は、普段飲まなくなったお酒を一気に飲んだせいか。みおちゃんが譲ってくれるという和服でお腹が冷えたせいか、お腹をくだした。
第5回(2) 言語美ゼミ へつづく
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第3回レポート その二
第1回レポート
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