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2019年3月8日金曜日

「書く通年講座」レポート小説 第2回

ZOOMではトミーさんがヤマダ電機で買ってきたというマイク付きのワイヤレスイヤホンを試していた。あいにく、その声はくぐもって何を言っているのか聞き取れない。「それぜんぜん聞こえないですねー」と大谷さんが言うとなんとも悔しそうなのが妙におかしくて笑ってしまう。忘れた頃にイヤホンをつなぐから、急にトミーさんの声が聞き取りにくくなって、「それ全然ダメなんで諦めてくださーい」と大谷さん。また残念そうなトミーさん。こういう時、関西弁って愛嬌があって羨ましい。「だからダメだって言ってんでしょー」とイントネーションの違う僕が入ることにうっすら怖さはあるけど、こんなに面白いことに入らずにはいられない。

前回欠席したトミーさんは講座の中で最年長というのを忘れるほど、欠席したのを取り返すように、というかもう十分取り返しているのにそれに飽き足らず、この講座を満喫しきっている。


今回は、岐阜県から来る予定のかなちゃんが体調不良でこれなくなって、ラジオでも聞くように聞いていたら良いと言ってある。会場には直前に到着した木下さん、参加者であり会場の住人のみおちゃん、ぼくと大谷さん、なっちゃんと子どもたち(新くんと伊吹)がいるから賑やかだけど、参加者6名中4名がZOOM参加というのは、講座をする前なら不安に思ったはず。
「これさ、一人一台パソコン持ってない人が集まってるみたいだよね」「ははっ。昔のカラーテレビに集まる人たちみたいなね。」なんて冗談を飛ばしてくつろげるくらい、今はこれで大丈夫だともう確信している。


「じゃ、やりますか」と目を合わせた大谷さんが精読講座についてミニ講義をおもむろに始める。

まるで今思いついたように、つっかえつっかえ言葉を選ぶように話す大谷さんの言葉は、実は前日までに何度も頭の中でしゃべりながら繰り返して輪郭を与えられた言葉だということを、僕はずいぶん経ってから知った。
なん度も繰り返しているのに、今まさに言葉を選ぶように話すのは、大谷さんにとって話すということがそうでしかありえないからで、分かるまでは人前で話すのがただ苦手なんだと思っていた。今もそう見えるかもしれないし、そう見る人もいるかもしれない。声を出すというのはでも、実は朗読であったとしても次の瞬間にどんな言葉が飛び出すのか分からないスリリングな行為で、大谷さんはそれをバカ誠実にやろうとしているというか、そうとしかできないだけというか、たぶんそうだ。その落ち着かせない話にみんなが耳を傾けている。

バカ丁寧に一つの文章を読み、バカ長い時間をかけてそれぞれが体験した文章について言葉を重ねる精読講座。の最初の一人目はさとしだった。さとしが最初の一人目になってくれた。くれたと言うと乗り気じゃなかったようだけど、さとしは前回勢いよく初回の精読講座に文章を出すことを希望していて、だから僕にとって、通年講座という初めての試みの中で初めてやる精読講座の記念すべき一人目がさとしになったということで、思いのほか感慨深いものがあることを今書きながら知った。

一年近い時間を同じメンバーが集まって、読み書き、書いたり読んだりしていく講座の中で、自分の文章を出して何時間もかけて読まれるというのはどんな体験なんだろう。

さとしは、自分で気づかないくらい繊細に、自分にとっての当たり前の世界のあり方をポンとみんなの前に文字として置いていた。夕方の5時を回ってもう1日目が終わる頃、「おれ今回けっこうチャレンジしてたなーって、ここじゃなかったら書けなかったし出せなかったなって、今更なんだけど、思った。」最後の一言を熱っぽく語ると、読み込んだ文章が遡行してまた重みを変えていく。

知り合ってまだ一年も経っていない木下さんは、通年講座に一番に申込をしてくれて、さとしと同じこの初日に文章を提出した。全員のコメントを聞いた後、彼は何も言わずにその全てを大事そうに受け止め、咀嚼しようとしていた。終わった後「これあと何回読んでもらえるんでしたっけ?」という木下さんが提出したのは、長ーい文章の出だしの数ページらしく、一つの世界をこんなにもあっさりと爽やかに置いてくる姿に、たんたんと自分の道を進んでいくのが、とにかく負けたくないって思ってしまう。僕も書きたいと思ってしまう。思わされてしまう。

自分で名乗っておきながら、一体主催ってなんなんだろう。通年講座の告知に際して、僕は大谷さんを講師として自分は主催として講座における立場を明記した。だからと言って大谷さんは申し込みやその他細かい連絡なんかもするし、僕も講座で熱くなって長々と話したりもする。よくある役割分担じゃなくて、役割の線引き、立場や軸足を決めたということで、入れ替わってることもしばしば。表面的な分担にお互い興味はないのに、それでもお互いの立ち位置を決めた。

大谷さんはこのごろ講師が板についてきていて、それはたぶん講師という立場への覚悟みたいなものが影響していて、僕は大谷隆ほど講師が似合う人はいないんじゃないかと最近はますます思う。

僕はどうなんだろうか。主催が板につくってあるんだろうか。主催の覚悟とは?とお決まりの自問をとりあえず立てておきつつ、今回少しわかってきた自答がある。僕は参加者で、もっとも危険な参加者であればいい。大谷さんの作った枠組みを根本から揺るがすような、根底のところで大谷さんともっとも対立出来るような、そういう存在としてこの場所にいるのが最も面白い。面白くなるんじゃないか。

2日目の言語ゼミ。その時はよくわからなかったけど、ソシュールの話が出たところを音声で聞き直してヒヤッとしたのは、まるで指示表出から言語を説明するのと自己表出からするくらい、真反対から僕と大谷さんは一つのことを熱っぽく話していた。こういうことは一つ間違うと事故になる。でもそんなスレスレの緊迫感のある拡がりが、講座の根底を押し拡げるはずだと思う。

表面的なことはどうでもいい。こんな講座を一緒に開いているくらいだから好みが似ていることも多いし、ちゃんと考えれば同じ結論に達することも多い。でも、根っこの根っこで僕と大谷さんは違う存在で、鋭く対立するようなものばかりじゃないけど、それも含んだ違いを、主催と講師こそが一番真剣にみていかなかなくてはならないと思っている。

だって誰かと一緒にいるということの面白さなんて、そういうまるごとの違いを含めてなければ、単なる仲間づくりになってしまう。それじゃあ僕はつまらない。

この講座に集まった僕たちは仲間と言えるだろうか。集まったと言ったけど、講座開始以来まだ直接会ってない人も何人もいる。共通の体験と言えるものは全くと言っていいほどない。それぞれの日常や深刻な事態についても、ほとんど話したり聞いたりする時間はとっていない。僕たちは一つの同じ現場に居合わせているわけじゃない。現場はそれぞれの目の前にまったく別々に存在している。

講座では時間を惜しむように、それぞれが勝手に読んだり書いたりした体験を話し合い、講座が終わった後も、その余波は止まらずに書き続け読み続ける。でも書くことは一人でしかできない。読むことは一人でしかできない。僕たちはその結果を報告しあってるに過ぎない。

一つの本を読み、文章を書くというだけの、か細い線のような共通性は、僕たちを仲間と呼ぶだけの強度を持っていない。けれどこうは言える。僕たちは一緒にいる。

いる場所も、書いたり読んだりする時間もバラバラだけど、この通年講座と名づけられた「書く」という時間の中に共にある。それぞれの日々の営みや生きるという体験ごと含んだその時間は、本来交わることはない。けれど読む書くという行為を通してそこに架け橋がかかる。

吉本隆明はそれを「かささぎの渡せる橋」と言う。織姫と彦星を分かつ、絶対に会うことの叶わない断絶された場所と場所の間に、なぜか架かる橋。

その橋を架けることがたまらなくおもしろくて。その橋を渡ることがたまらなくおもしろくてまた、今日も僕たちは勝手バラバラに書き、そして読む。

第3回へつづく

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”通常版”のレポートも併せてどうぞ。
第1回レポート

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