「声のなんでも小辞典」(和田美代子 著・米山文明 監修)がよかった。
声は、声帯の振動そのものの音ではありません。(中略)人の声は空気の渦巻気流音、つまり狭い隙間を吹き抜けていく風がつくる唸り現象です。一対の声帯の隙間(声門)に肺から空気を吹き込み、声門が開いたり閉じたり断続した気流によってできる気流音を音源とします。言われてみれば 、当たり前でなんということのないことだけど、気流音が声の「音源」だというのは衝撃だった。しかもこの音源(喉頭原音)は、口腔や鼻、によって調整されて外に表れるので、直接それを聞くことはできないという。
これはまったく、縦糸としての自己表出と横糸としての指示表出という吉本隆明の言語観と一致している。ぼくはつい最近まで知らなかったけれど、織物というのは縦糸を通した上に、横糸を通して作られるので縦糸は普通、外からは見えないらしい。吉本隆明はその性質が自身の言語理論と類似していることを、どこかで発見して、あるいは人から聞いて驚いた。のだと思う。
空気を吸う時は、多かれ少なかれ横隔膜が動く。横隔膜の直下には内臓があって、深く吸い込めば内蔵器官が動くほど。声をだすときには、胸筋の助けを借りて肺が縮む(このとき横隔膜が戻るのにつられて内蔵 も元の位置へ)。送りだされた空気が、内臓器官の延長である声帯を通り抜け(ここで喉頭原音が発生)、おなじく内臓器官だけど体壁によって覆われている喉や鼻、口腔を通り(共鳴)、舌、唇など筋肉によって統御可能な動きによって最終的な音の形を整えられて「言葉」になる。
これは比喩ではない。言葉の原点が音声にあることは、今となっては誰も疑いようのないことだけど、その声は、自分の肉体の深部とつながった気流の唸りを覆い隠すようにして整えられた音のことだった。
ここまで来ると、ようやくぼくが「音読」にこだわっていることを正確に言葉にできる気がする。音読とは、「声にして読む」と同時に、テクストの声の音源としての「音を読む」ことでもある。
こういうことを、普段の会話に応用すると、全然楽しくなさそうなのに「楽しい」と言っている人の声をどう聞くのか、ということや、何を言ってるのかさっぱりわからないけどとにかく面白かったんだな、ということだけが伝わってくるような体験をどう楽しむのかということまで広げられるけれど、探求の方向としてぼくはそっちには足が向かないらしく、親しい人の声の聞こえ方が変わるのを一人楽しむことにしてます。
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